セキホツ熊の謎を追え!

古史古伝を片手に神社めぐり。古代人の残した偽書に基づく妄想考察。

〈陸奥巡り①〉東日本大震災後の石巻、田村麿と宮下氏流葛西氏の足跡を辿る旅。

 

 

あの日海が押し寄せてきた。

 

住民はこぞって丘に逃げ込んだ。
その石巻復興のシンボルとなった『鹿島御児神社』の大鳥居

 

 


2025,7,27

今回、宮城県の塩釜・松島・石巻を寺社めぐりしてきました。

当初石巻には行く予定はなかったのですが…。なにせ仙台周辺のホテルが高騰しておりまして、格安ホテルを探しているうちに仙石線を東へ東へ。気づいたら石巻にたどり着きました(苦笑)。地図上は近く見えるかもしれませんが、実際は電車で50kmくらい離れております。

当初気付きませんでしたが、この塩釜〜石巻は延喜式内社論社が非常に多い。宮下文書における田村麿末裔伊達氏や、宮下氏族葛西氏が所領してきた重要聖地だったのです。

この地になぜ祖家系の神々が祀られているのか?、なぜサルタヒコ信仰が多いのか?もわかってきました。結局葛西氏族に呼ばれていたのかな?と思っております…。

 

(´(ェ)`)



〜熊オッサンが石巻市内で参拝した社〜

  • 鳥屋神社・羽黒山神社(式内社)
  • 鹿島御児神社(式内社)
  • 大島神社(式内社)
  • 拝幣志神社・箱崎八幡神社(式内社)
  • 一皇子宮
  • 栄存神社
  • 零羊崎神社(式内社・牧山)
  • 伊去波夜和氣命神社(式内社)
  • 朝日山計仙麻神社(式内社)




ここに2011年3月東日本大震災にて大津波が甚大な被害をだした。

当ブログでは、今までにもさまざまな偶然に着目し続けてきたわけで、目的は神社巡りですが、日本人として震災の傷跡も見ておきたかったわけです…。今回ここに来れたのも何かの御縁、石巻被災地の慰霊参拝をさせていただきました。

m(_ _)m





~目次~

 






 

再建された宮城県石巻市住吉町『大島神社』。
境内から旧北上川を望む。




日和山、津波から住民を見守った神々。

日和山とは旧北上川河口西岸、石巻平野部にある56mの丘陵で、江戸時代には商船出航に合わせて天候を観察していたという。松尾芭蕉も訪れ桜の名所としても知られる。

2011年3月11日の東日本大震災では、眼下の市街地に津波が押し寄せて、多くの市民が高台を目指して避難してきたという。結果的に、この日和山丘陵にあった『鳥屋神社・羽黒山神社』『鹿島御児神社』の損害は平地より少なかった。



◯『鳥屋神社・羽黒山神社』(宮城県石巻市羽黒町)

〜鳥屋神社〜

  • 猿田彦神
  • 船御魂神

〜羽黒山神社〜

  • 倉稲魂神
  • 大物忌神

 

延喜式牡鹿郡十座の一社。

367年(仁徳天皇55年)伊勢神宮内宮末社の猿田彦大神を祀れとの勅願があり、東奥伊寺之水門鳥屋岬まで官軍がやってきたという。因みに松島・石巻にはサルタヒコ系の式内社が結構ある。

1186年(文治2年)藤原秀衡が羽州羽黒山を勧請し、その後も仙台藩主伊達氏に崇敬された。

 

当ブログでは坂上田村麿=サルタヒコ子孫としてきたわけだが、三輪本現代訳によると武内宿彌の孫が婿養子になっていたようだ。つまり坂上田村麿はサルタヒコ女系子孫であり、その末裔が仙台藩伊達氏となる。徳川家康が伊達政宗を早々に評価した『百万石のお墨付き』の内情は、ここにありそうなのだ。

作田毘古命(猿田彦命)の末裔は代々太神宮の供物司長の職を継承してきた。しかし七十一世孫田作彦命で跡継ぎが途絶えてしまい、長女・春子姫に武内宿彌孫・羽田彌根雄命が婿養子入りした。以降は供物司長の職を羽田氏が継承することになる。この系統がのちに、伴・坂上・信夫・田村・伊達となる。

一方の羽田氏祖・武内宿彌は9代開化皇別、母はサルタヒコ子孫・山下影比女命。つまり田村麿や伊達氏はサルタヒコ女系子孫であり、彼らの影響が色濃く残る当地でその信仰はごく自然であったのだろう。 

謝罪と訂正いたします。よく読んでおりませんでした。

ゴメンナサイm(_ _)m。

 

また一つ気になることも判明した。

三輪本現代訳p252によると、3代宮下記太夫仁忠は、なんと…この武内宿彌羽田氏系らしいのだ。つまり応神天皇系宮下家は2代宮下源太夫明政で終わっている可能性あり???。

詳細を知りたいところだが…、3〜21代までの項目は名前だけで、内容は省略されている(調査中)。前記事から述べている通り、平安時代末期49代宮下源太夫義仁は清和源氏三浦氏族の婿入りとなる。






◯『鹿島御児神社』

〜御祭神〜

  • 武甕槌命
  • 鹿島天足別命(武甕槌命御子)

 

※2021年(令和3年)に、震災などで劣化した古い鳥居が解体された。しかし石巻エリア全体のシンボルでもあり、市民の要望も募って急遽同年中に再建された(表紙画像)。





日和山丘陵のもう一つの延喜式内社、陸奥国百座のうちの一座。

1189年奥州合戦の恩賞として、葛西清重が胆沢・牡鹿・気仙郡など5郡を領して、日和山に石巻城を築城した。所領は天正18年(1590年)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで堅持された。

通説葛西氏は秩父平氏庶流で、武蔵国や下総国葛西郡などにも強い影響力を持っていた。伊勢御厨の神域にあった葛西神社も、葛西氏族による香取神宮勧請とされる。また1182年(寿永元年)武蔵国府大國魂神社では、源頼朝正室政子の安産祈願の使節として葛西三郎清重が遣わされた。熊オッサンの母方推定祖先である小野寺氏は葛西家臣であったようだ。

(´(ェ)`)

 

 

 

※ ↑画像は東京都葛飾区東金『葛西神社』




では宮下文書版葛西氏族とは…。

何度も言って恐縮だが、応神天皇大山守皇子の第十王子益田日高彦の末裔となる。

そもそも15代応神天皇死後に、16代仁徳天皇と皇兄大山守皇子が対立して、福地川(富士川)を停戦ラインとし日本国東西は分離した。事実上東国は富士朝大山守皇子の配下となった。交戦中は相模大山に潜伏していた大山守皇子が富士朝大宮司宮下家を名乗り、その王子である益田日高彦が日高見国造となった。

平安末期に源頼朝率いる東国武士団による富士朝再興活動に、葛西氏族も参加していたと思われる。…むしろ自然な成り行きであろう。

 

(´(ェ)`)





 

 

 

 

 

 

雲一つない空から祓いの雨がパラパラ降った『拝幣志神社・箱崎八幡神社




復興されないまま?の名神大社。

 

ヤマトタケル東征の折に賊徒を当地を平定し勧請された。56代清和天皇即位してすぐ859年(貞観元年)には従四位下に列し、その後の延喜式神名帳には『零羊崎神社』とともに名神大社に列せられた。

古来は箱崎山または箱山(五松山)山頂に鎮座していた。近くに三尺五尺程度の石あり箱石・手箱石と呼ばれていたという。後世に箱崎明神と呼ばれ、箱崎山の地名と、弥生時代と古墳時代の遺構を持つ『五松山洞窟遺跡』が残る。1907年(明治40年)廃仏毀釈の折に箱崎八幡神社が合祀された。つまりオリジナルとは違う信仰が近年合祀されている。




◯『拝幣志神社・箱崎八幡神社』(宮城県石巻市八幡町)

 

〜拝幣志神社〜

  • 高皇産靈命

〜箱崎八幡宮〜

  • 応神天皇

※ただ隣山・零羊崎神社の御祭神が豊玉彦命(宮下文書版ワダツミ系となるヱビス曾孫)であり、宇佐神宮を守護してきたワダツミ系八幡信仰の影響が強かった可能性はあるかなと…。





率直にいうと、これが名神大社???と思うほどのお社だった。

本殿に庇のような接合部があり、基礎があったので、かつては拝殿があったのかな?と想像はつく。帰宅後ネットで調べてみると…やはり震災前は拝殿があったようだ。武蔵一宮小野神社を一回り小さくしたような朱色の拝殿であった。隣には石造りの蔵?または壁?があったハズだが、現在は更地になっている。旧北上川対岸の式内社大島神社に比べると、氏子たちが離散して復興が遅れているのかな?と思えてくる。

本殿の目前まで歩み寄って参拝、ひふみ祝詞を奏上する。すると…雲一つない晴天中にライスシャワーのような祓いの雨がパラパラ降った。熊オッサンには霊感がないが、ただ男系推定祖先武藤少弐氏が筥崎宮と深い御縁があり。神さまから『神はまだおるぞ!』『皆に伝えてくれ!』とのメッセージなのかな?と思っている。

なので率直に書かせていただいた。

(´(ェ)`)




※因みにwikipedia零羊崎神社によると、もともとは葛西氏の祭田があった牧山北麓の石巻市真野にあったという説がある。いまも論社がある。

1590年豊臣秀吉の小田原征伐を境にして葛西氏が衰退、祭祀継承が曖昧になってしまったようだ。牧山も、神功皇后や坂上田村麿由来の聖地としての重要度は高く、吸収されてしまった感もある。また田村麿関係の別記事で紹介するかもしれない…。





 

 

 

 

 

 

震災で鳥居が崩壊した、宮城県石巻市大宮町『伊去波夜和氣命神社』





最大被災地の渡波エリア

 

延喜式神名帳陸奥国内の百座のうちの一座、別名を浜大明神や鹽盛明神という。武甕槌命・経津主命は、奥州一之宮の鹽竈神社の祭神であり、天照大御神と倉稲魂神(豊受大神)は伊勢神宮の内宮・外宮祭神の位置づけ。特筆すべきは、ここでは猿田彦命=塩土老翁神と解釈されているらしく、陸奥一宮鹽竈神社祭神と一致するそうだ…。

先述した零羊崎神社と同様、もともとは真野川上流域の水沼にあったとされ現在も同名式内論社がある。水沼側の御祭神が塩土老翁命であるのは興味深い。この地域で猿田彦命が崇敬されるのはサルタヒコ女系田村麿子孫伊達氏の影響もありそうだ…。



◯『伊去波夜和氣命神社』(宮城県石巻市大宮町)

〜御祭神〜

  • 猿田彦命(塩土老翁命と同神と解釈される)
  • 武甕槌命
  • 経津主命
  • 天照皇大神
  • 倉稲魂命(豊受大神)

※五柱揃って伊去波夜和氣命という。



因みに、宮下文書版塩土老翁命は祖家系統・武勇命の弟。

ニニギ勅定十七軍神の一柱神であり、興玉命と味耜託彦根命の父神。タケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシは甥っ子にあたる。外寇親征の役の折に、ニニギがコノハナサクヤヒメ崩御を知り急ぎ富士朝帰還する際に、九州最前線防衛を塩土老翁命とその子・豊玉武毘古命に任せた。戦後論功行賞にてニニギはそのまま北九州を豊玉武毘古命に、南九州を塩土老翁命に賜る。また南島(四国)を興玉命と味耜託彦根命に賜る。

※祖家系の豊玉毘古命は、ワダツミ系の豊玉毘古命とは別系統別神。名前が非常に似ているので注意。現在でも祭祀的混同されている地域は多いとみている…。零羊崎神社や朝日山計仙麻神社もその可能性がありそうな気もする...。

 

 

 




ニニギ御孫ウガヤフキアエズによってウガヤ朝が創建されると、神都高千穂峰周辺の日向国・襲国・曽於国を支える地主信仰となった。さらにウガヤ海洋文化と相まって海神信仰に発展した可能性もある。ホツマツタヱにおけるシオツチは、ホオテミ(ヒコホホデミ)をソヲのハテツミの元へ誘った謎の老人として描かれている。これは暗にウガヤフキアエズ朝創建を指しているのだろう。青島神社『鴨就宮』では塩筒大神として祀られており、これが紀の松島と鴨川松島とレイラインで結ばれる。

塩土老翁命別名が事勝国勝長狭なのにも注目。長狭国とは房総半島安房国『鴨川』『勝浦』付近なのだ。つまりフトダマ忌部氏由来の勝占忌部となにかしら関係があるとみている。また土佐国地主神アジスキタカヒコネが、51代ウガヤ朝皇弟・高座日多命の山背国にて鴨神(別雷命同神)として語られるのもココに理由がありそうだ。

当然その背後には、忌部連らが奉祀していたマゴコロ夫妻の巨大海神信仰がありそうだ。

このあたりは別記事でまとめたい(いつになるかは不明)。



(´(ェ)`)

 

 

 

 




東日本大震災でも屈指の被災地となったのが渡波エリア。伊去波夜和氣命神社は海から数百メートルのところにあり、社務所・宮司宅・鳥居は津波の直撃を受けた。しかし社殿は小高い位置にあり鎮守の森にも囲まれていた。また松の木が瓦礫の侵入を阻止し拝殿に逃げ込んだ人々を守っていたのだという。

社殿左手に回ると石祠がずらりと並べられており、津波に流されて身寄りの無い祠を保護していた。これをみたときは流石に息を呑んで泣いた。



(´(ェ)`)







おわりに

ちょっと思う所がございましてしばらく夏休みをいただきます。9月頃には復帰できるかな?と思っております…。

お楽しみにm(_ _)m

xの方はマイペースで投稿していきます。ここでは面白い画像や記事の追記・訂正もしております。よろしかったら覗いてみてください。ただ宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。



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LINE公式アカウントの方はしばらく配信を停止させていただいております。

 ご了承くださいm(_ _)m

 

 

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※地図はクラフトマップ使用

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有鹿太陽神と鈴鹿『桜田伝説』、相模国に稚日女命と地返しの玉を祀る意味?。

 

有鹿奥宮

 

 

 

2025,7,6

前記事でご紹介した常陸国から伊豆国への『御根磯淡島レイライン』の続きです。王子権現や熊野信仰などからマゴコロ夫妻を深掘りしてゆく。今回もまたマゴコロ夫妻と月桜田毘女命の関係に迫ります。

再び桜と松の共生関係が露わとなってきた。

(´(ェ)`)

 

 


~目次~

 

 

東海第二原発は807年空海聖地だった?、大甕神社『御根磯』と吉田氏族『水戸レイライン』 - セキホツ熊の謎を追え!

『さんよりこより』に見る妹背論、瀬織津姫とマゴコロ夫妻は飛騨一宮『位山』を示す?。 - セキホツ熊の謎を追え!

九頭竜・ヒルコ・ワカサクラヒメは同一神ではないのか?、阿波✕安房あわわ神社レイライン - セキホツ熊の謎を追え!



 

 

 

 

 

宮下文書版マゴコロ夫妻のおさらい。



〜マゴコロタケル(阿和武命)〜

宮下文書版クニトコタチ嫡流孫、アマテラス従兄妹、ホツマツタヱ版アマテル(ワカヒト)?、天照国照彦火明櫛玉饒速日命(ホツマ版とは別神)?、ワクムスビ(ワカムスビ)?、アワシマ?、アワナギ?、アメノワカヒコ七夕伝承?。若宮八幡?、熊野若宮=若一王子?。

※宮下文書版阿和武命は阿波国→安房国へ拠点を遷した。

※※ホツマツタヱ版『妹背の道(伊勢の語源?)』は、豊受大神・アマテル・瀬織津姫・ワカヒメの四柱となる。

 

〜マゴコロアイヒメ(松島毘女命)〜

宮下文書版クニサツチ嫡男ウイジニ九女、マゴコロタケル妃、アメノオシホミミ母?、宮下文書版ツクヨミ妃月桜田毘女命の妹。ホツマ版ワカヒメ?、ワカヒルメ?、ヒルコ?、玉津島神=丹生都姫命?、九頭竜モチコ?、瀬織津姫妹ワカサクラヒメ?、御歳神?、天棚機姫神?、ホツマ版シタテルヒメ・タカテルヒメ?。

※ホツマツタヱ版ヒルコは、ツクバで生まれて、ヒロタへ流された。

※※丹生都姫命=玉津島神という説あり、アマテラス妹との説も在る市杵島姫命と被る。当ブログでは丹生都姫命=與杼姫命=ウサミ妃小幡毘女命ではないか?と推測していたが改めて再考察が必要かと…。m(__)m

※※※市杵島姫命もイワナガヒメではなく、正直マゴコロアイヒメではないかと思い始めている。

 

〜月桜田毘女命(葦津毘女命)〜

宮下文書版ウイジニ長女、カグツチ妹、松島毘女命姉、大月留男命ツクヨミの従兄妹にして妃(オオゲツヒメ?)、オオヤマツミ母。通説アマテラス荒魂、瀬織津姫命?、ヤソマガツヒ?、謡曲桜川の狂女のモデル?。

※マゴコロタケル生誕地と思われる阿波国。阿波一宮『一宮神社』にはオオゲツヒメと天石門別八倉比売命が祀られる点も興味深い。


(´(ェ)`)

 

宮下文書で妹背解明、飽波神社の瀬織津姫・ヒルコをそれぞれ夫神たちが見守っていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!

九頭竜・ヒルコ・ワカサクラヒメは同一神ではないのか?、阿波✕安房あわわ神社レイライン - セキホツ熊の謎を追え!

〈筑波桜川めぐり〉瀬織津姫・稚日女命ふるさと説、ヒムカの謡曲桜川との関係とは?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年5月撮影『有鹿奥宮』の湧水、2024年に直上の倒木があった。

   

  

 

太陽の男神『有鹿毘古命』と安房忌部



常陸国府から、レイライン上所変わって相模国分寺・海老名エリア。

式内社・相模五宮有鹿神社は、相模川支流鳩川沿いに広大な神領を有しており、相模三宮比々多神社とともに相模最古級といわれる(諸説あり)。wikipedia有鹿神社によると、相模一宮寒川神社のかつての由緒書には有鹿のほうが由緒がある旨書かれていたという。寒川神社側はその由緒書きをなくしたという(苦笑)。高座郡寒川は古来から富士朝関係地で、寒川神社は里宮として800年延暦噴火以降創建された。なので間違いはないだろう...。

前記事で述べたレイラインは、房総半島→甲斐一宮浅間神社→桜井天伯社を通り、飛騨一宮奥宮『位山』方面へのクロスポイントを形成している(別記事でご紹介する予定)。

 



◯『有鹿神社』(神奈川県海老名市上郷)

〜御祭神〜

  • 有鹿比古命(太陽の男神?)
  • 有鹿比女命(水の女神?)
  • 大日靈貴命

※神社起源は、阿波忌部が当地にて祖先を祀ったことに由来し、『神社覈録』では忌部祖神・フトダマが祀られていたという。

 

   

 

鳩川(有鹿河)沿いは古来から湧水ポイントが点在しており豊かな住環境であった。しかし29代欽明天皇時代、有鹿神社と鈴鹿明神社との間水源をめぐる対立が生まれていった。有鹿中宮旧跡は座間市入谷西・『諏訪明神社』付近にあったとされるが、抗争ののち鳩川下流の現在地へ追いやられた。645年乙巳の変以降、全国的に祖家(宮下文書版・蘇我大伴系統)や忌部連の衰退が見られており、その影響もあったのかもしれない…(妄想)。

ただ春の水引祭、霊石が有鹿奥宮(有鹿窟)に鎮座する約2ヶ月間限定で、水利用権が海老名周辺(海老名、社家、中新田など五箇村)に優先的に回されることになった。

さらに江戸中期には両社に協調関係が芽生え、勝坂湧水への有鹿水引祭では有鹿側の神輿を鈴鹿側の神輿が先導していたようだ。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

太陽神と水神、まずサクナダリを思い出した。

 

 

桜田伝説『松女と小桜姫』



上記抗争ポイントの一つ谷の深(やのふけ)は、有鹿神社旧跡のある湿地帯エリア。現在は諏訪明神社がある付近で、ここはかつて桜田と呼ばれていた。

室町時代後期に武士・渋谷高間なる人物がいた。妻を失うも彼女の遺児・小桜姫に精神的に支えられ生活していた。後妻として松女を娶り小柳姫が生まれた。小桜姫と小柳姫は仲睦まじい異母姉妹となった。しかし松女は我が子、小柳姫を世継ぎとしたかった。

ある日、高間が修行の旅に出て家をあけた折に、松女が家来と共謀して小桜姫を殺害、遺体を桜田の沼地に沈めた。これを知った小柳姫は嘆き悲しみ、後追いして入水自殺した。

村人たちは松女の悪行に勘づいて彼女を責め立て、相模川氾濫を防ぐための人身供犠として埋めた。修行の旅から帰ってきた高間はすべてを失った事を知る。村人らは小桜姫を憐れみ碑を建て、桜を植えて弔った。

高間は出家して曹洞宗水上山『龍源院』を建立して一族を弔った(1461年)。本堂の奥には鈴鹿の泉なる湧水ポイントがあり、現在は相模七福神辨財天が鎮座している。相模渋谷氏族は通説秩父平氏・畠山氏・葛西氏・豊島氏と同族といわれており、富士朝とも深い関係がありそうだ。高間の読み方は不明、どこか高天原を彷彿とさせるが…。

そして世継ぎ争いはホツマ版瀬織津姫命と九頭竜モチコの争いを彷彿とさせる。

 

こうしてみると、この湧水の地に宮下文書版ウイジニ姉妹が関係していてもおかしくない状況。もっと言えばマゴコロ夫妻と瀬織津姫命が祀られていてもおかしくはないかなと…。龍源院北300m番神水公園湧水ポイントには日蓮上人(安房国小湊出身)が勧請した番神堂があり、三十番善神の神額が気にかかるのだが…。諏訪明神タケミナカタも、各地の瀬織津姫系神社によく祀られている御祭神である。

 

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有鹿奥宮は来るたびに印象が違う。古いスマホ画像でボケボケですが…。

 

 

鈴鹿といえば瀬織津姫命ではないのかい?



鈴鹿明神社は、第29代欽明天皇時代の創建。

鈴鹿の地名由来は、40代天武天皇御孫・鈴鹿王の所領であったことによるといわれる。737年(天平9年)天然痘が大流行。長屋王を謀略の末追い詰めた藤原四兄弟や多治比県守らがつぎつぎ薨去。同時に長屋王の弟であった鈴鹿王が、一挙に知太政官事に任ぜられる。鈴鹿王立身出世の背景には兄への鎮魂の思いがあったようだ。

ただ…当社縁起によると全く異なる伝承もある。伊勢国鈴鹿郷の神輿が海上を渡御していた折、暴風により相模国入海の東峯(場所不明)まで漂流したという。里人らが座間鎮守・鈴鹿大明神として祀ったというのだ。

いずれにせよ現在の御祭神的には、どちらも全く無関係なのはよく分かる…。



◯『鈴鹿神明社』(神奈川県座間市入谷西)

〜御祭神〜

  • 伊邪那岐命
  • 素戔鳴尊(京都祇園八坂神社勧請)

※かつては牛頭天王が祀られていた。

 

〜摂社〜

  • 厳島神社
  • 稲荷神社



ただ鈴鹿といえば、個人的には鈴鹿御前(瀬織津姫命説+田村麿伝承)である。

伊勢国鈴鹿峠というのは、伊勢湾鈴鹿川と琵琶湖山中川(田村川)の分水嶺となる。位山三山分水嶺と似た状況である。そのなかで鈴鹿御前というのは鈴鹿峠の境界を守る神とされる(諸説あり)。伊勢神宮にも関わりが深く、朝廷から派遣された斎王が逗留した鈴鹿禊の地。また巫覡の徒が祓えを行う地でもある。

そこになぜか…坂上田村麿が鈴鹿御前と夫婦になり祀られた経緯がある。現在でも鈴鹿川源流鈴鹿峠付近『片山神社』には伊勢創始者倭姫命が祀られ、瀬織津姫命が配祀されている。滋賀県甲賀市田村川流域『田村神社』には高座大明神として坂上田村麿と倭姫命を祀る。



〜田村麿と瀬織津姫は分水嶺?〜

▲田村川…田村神社(倭姫命と坂上田村麿公ほか)

▲鈴鹿川…片山神社(倭姫命と瀬織津姫命ほか)



奇しくも東国では、相模国高座郡寒川神社と富士朝高天原高座山と田村麿が共通関与しているわけだ。

かつての高天原高座山の隣にはツクヨミ夫妻の住居加茂山があった。当ブログは瀬織津姫命の御正体をツクヨミ妃・月桜田毘女命ではないか?と推測している。当ブログでは、伊勢国鈴鹿峠や陸奥国早池峰山で瀬織津姫命の伝承が残っているのは、坂上田村麿の影響なのではないか?と推測している。

宮下文書によると。サルタヒコ末裔である坂上田村麿は、阿祖山太神宮神官供物司長の家系であった。さらに伊勢国鈴鹿には椿大神社があり、サルタヒコ子孫が伊勢祭祀で進出した土地でもある。800年延暦噴火後、807年田村麿は空海とともに富士朝入麓して復旧活動開始、東国を中心に水神祭祀強化による鎮火祭鎮魂活動をしていた。大同年間(806〜810年)この2人によって創建された寺社が各地に数え切れないほど残っている。この鈴鹿御前の伝承も、彼もしくは、代理人による富士山鎮火祭の一貫ではないかと思われる。

 

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稚日留女命と道反大神を祀る、『栗原神社』



栗原神社と熊野王子信仰の接点?



まず有鹿神=マゴコロ夫妻なのであれば、周辺に王子権現かワカヒルメ信仰があってもおかしくないと考えた。そこで思い出したのが、かつて参拝した『栗原神社』であった。有鹿中宮旧跡(諏訪明神社)から1.5km東にあり、武田二十四将と関係があった曽根氏らが土着した口伝がある。1873年(明治6年)明治合祀により王子・龍蔵・握財・絹張・若宮の五社を合祀し栗原(くりはら)神社と改称した。

どこか粟(あわ)を感じてしまうのだが…。



◯『栗原神社』(神奈川県座間市栗原中央)

〜御祭神〜

  • 豊受大神(宮下文書版クニトコタチ夫妻)
  • 天御柱命
  • 稚日留女命
  • 道反大神
  • 国御柱命

※因みに龍蔵大神・天御柱命・国御柱命は龍蔵神社合祀によるもの、付近には立野台という地名が見られるので龍田大社系の信仰か?。明治時代の神社合祀令とは、周辺の複数神社を一つに合併する政策のこと、いわば神社リストラ計画となる。ただし水戸光圀のように、古来の氏族信仰の痕跡をなくしたい『歴史改竄』『系譜改竄』の思惑もあったようだ。これにより多くの富士朝関連氏族の足取りが断たれてしまった感がある。

 

境内由緒書によると1573年(天正元年)創建。地元の豪農・大矢弥市が王子大権現を勧請して創建。勧請元は不明であるが、結果として武蔵国王子神社と栗原神社が同一ライン上に存在しているのは興味深い。

現在の御祭神からは、熊野信仰や王子権現の気配をあまり感じない。ただ宮下文書読者であれば、豊受大神=クニトコタチ夫妻であり、熊野三山奥の院『玉置神社』の御祭神と気づけるハズだ。さらに玉置神社摂社『三柱社』には龍田大社由来の天御柱神・国御柱神が配祀されており、前記事で述べたように熊野玉置神社三柱社は伏見稲荷大社の元宮説がある。

 

※因みに、東寺に伝わる稲荷大明神縁起によると、熊野で修行中の空海が紀州田辺の宿で自ら神を称する老人と出会う。詳細は長いので割愛するが…この老人が稲荷信仰と深い関わりを持っていたようだ。平安時代中期以降、紀州熊野への参詣が盛んになると、その往復の際に伏見稲荷大社入口にある『熊野社』に立ち寄るのが習わしとなったという。

 

(´(ェ)`)。




 

 

 

 

 

 

 

有鹿奥宮

 

地返しの玉の役割

 

ここでクローズアップしたいのが、御祭神のワカヒルメと道反大神(地返しの玉)のコンビネーションである。

まず宮下文書をおさらいすると。

イザナギ・イザナミは優れた指導者で、臣民から慕われ仲睦まじい夫妻であった。高天原小室の日向を拠点に、毎夜火を焚き阿族祖霊(神祖神宗)を弔った。これが祖霊信仰として確立され、アマテラスの阿祖山太神宮創建の礎となった。二柱崩御は一日違いで高燈大神と諡された。因みに後世の太神宮2代目大宮司タマノオヤ御子ウサミが創建した熊野信仰は、富士朝阿族信仰の正当性を示しているわけで、イザナギ・イザナミがシンボル神として祀られるのはおかしいことではないだろう。

実際のイザナギ・イザナミは『小室』を拠点としており、家屋が本格的に普及したのは御子アマテラスの御代となる。集落から『室』を廃止して『村』とした。つまり夫妻は穴の中に住んでいたわけで、歴代権力者たちは祖先ながら野蛮で非文明的と揶揄していた節がある。つまり黄泉の国というのは、富士朝時代を指しているのではないかと。

 

道反之大神は宮下文書には登場せず。

記紀では塞坐黄泉戸大神、泉門塞之大神といい、黄泉と現世に境界線を守る意味合いがある。記紀版イザナギが変貌したイザナミの追っ手を振り払って、黄泉の国から生還した神話に基づいている。イザナギが黄泉比良坂を塞いだときに、千引石に付けられた神名が道反大神であった。黄泉からの災いを防ぐ岩の神、道祖神や塞の神の特性を持つとされた。通説ではこれが地上界と地下世界の断絶であり、日本最古の離婚だとしている。

それは暗に輪廻転生にかかわる過去→未来への境界を意味している。ここから縄文土人の古い信仰と、西国の新しい信仰の境界線でもあったのではないか?と推測する。

 

 

◯『屑神社』(奈良県宇陀市大宇陀嬉河原)

〜御祭神〜

  • 衝立船戸神
  • 道反之大神(地返しの玉)

 

 

屑(クズ)神社は奈良の東口『宇陀』にあり、衝立船戸神は岐(くなと)の神ともいわれる。厄災・疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落境界に入るのを防ぐとされる道祖信仰、いわば都の結界のような神社である。前述した鈴鹿峠の分水嶺祭祀も、ある意味では境界の塞の神とも解釈できる。このように地返しの玉とは、村境や峠などの境界で祀られ悪霊邪鬼を追い返す役割があった。

記紀版イザナミは火の神カグツチを産んだからこそ死んだ。イザナギが黄泉から生還してもう野蛮な過去には立戻る必要はないと…。だから西側はあくまで新しい神道大系と歴史改竄を推進すべきだ、という口実にした。このように西国天皇勢力にとっては、富士朝信仰の脱却をしたうえで、まずはその境界をつくり、富士朝史の逆流を防ぐ必要があった。



※因みに前記事でご紹介した和歌山県の大伴発祥地説がある刺田比古神社も国津・国主・九頭(くず)神社などと呼ばれていた時代があった。石燈籠には『九頭大明神』と彫られている。そういえば安房一宮洲崎神社参拝の折にの鳥居にも『岐の神』の神額があったので驚いた…。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

 

妹背の正体、アメノオシホミミはアマテラスの養子だった。

 

 

 

ワカヒルメと地返しの玉のコンビネーション

 

ここで思い出して頂きたいのが、ワカサクラヒメ姫と地返しの玉(活モノ)である。

ホツマツタヱ7文では、瀬織津姫妹神ワカサクラヒメハナコがスサノオに殺害され、アマテラス岩隠れへと発展する。この際、瀬織津姫ホノコが罪人スサノオの助命嘆願を進言したのだが…。彼女は地返しの玉(活モノ)に祈って、妹ワカサクラヒメを蘇生させたという謎のセリフを残している。結局このセリフ、瀬織津姫命は何が言いたかったのか?。いやホツマ編集者は瀬織津姫命に何が言わせたかったのか?…深読みしてみよう。



〜ホツマツタヱ7文〜

しかるのち たかまにはかり

そさのをの とがはちくらの

みきだがれ かみぬきひとつ

つめもぬき まだととかねば

ころすとき むかつひめより

さおしかに うけものゐのり

よみかえす はなごのよもさ

つくのゑは さがおあかせよ

 

 

当ブログでは瀬織津姫命=月桜田毘女命、ワカサクラヒメ・ワカヒルメ・九頭竜神=マゴコロアイヒメ(松島毘女命)と見ている。

まず宮下文書版アメノオシホミミ母神は、系譜上ではマゴコロアイヒメ(松島毘女命)だ。ただそもそも彼女が不妊症で悩んでいたのは周知の通り、では御子はどうやって生まれたのか?という疑問が残る。この疑問は、後世の宮中祭祀者らを相当悩ませたと思われる。

もし代理出産を立てるならば、遺伝子的に一番近く、出産経験が豊富な姉神・月桜田毘女命が相応しいのであろう。ただそれも推論に過ぎず。神代当時から皇家のデリケートな国家機密として黙殺されていた可能性さえある。

そんな政治的事情とは裏腹に、神道とは基本的に祖霊信仰なわけで、いかなる理由があっても遺伝子提供者たちを伝えなくてはならない側面もあるハズだ。このデリケートな問題をどのように祭祀して、継承するべきか?。祖家・忌部ら宮廷祭祀者たちは議論を重ねた。

…というのが実際のところと思われる。

 

 

 

彼らの回答の一つがホツマツタヱであった。

ホツマツタヱ歴史改竄の特性の一つとして、別神への転生が見られる点が挙げられる。簡単に言えば神系譜の改竄、或いは別神のすり替え、新しい神名の創出。同時に桜田毘女命と松島毘女命、どちらにもクニトコタチ男系母神である可能性を『ひな型』として残した節もみられる。これが伊勢祭祀『妹背の道』を暗示しているのではないかと…。

 

〜妹背の道(伊勢の語源?)〜

▲豊受大神(宮下文書版クニトコタチ夫妻)→伊勢外宮?

▲男神アマテラス(宮下文書版マゴコロタケル)→伊勢内宮?

▲瀬織津姫命(宮下文書版月桜田毘女命)→内宮荒祭宮?

▲ワカヒルメ(宮下文書版マゴコロアイヒメ)→伊雜宮?

※瀬織津姫命→アマテラス荒魂

※※ワカヒルメ→アマテラスの分身または妹説あり、生田と同じ神?

※※※ホツマツタヱ版ヒルコは、ツクバで生まれて、ヒロタへ流された。

 

 



 

 

ホツマは皇位継承争いをまるで『コトリ合戦』として描いている節がある。

瀬織津姫命が産んだアメノオシホミミを、ワカヒルメが育て、瀬織津姫命は九頭竜神御子アメノホヒを育てている。次第に九頭竜神は瀬織津姫命に不満を抱き、カルマ深い悪神へと変化してゆく。最後はワカヒルメ御子タヂカラオによって戸隠山に、善神として封じられた…。ワカサクラヒメ→ワカヒルメ→九頭竜モチコは様々な立場へと変身して、同神でも祭祀上は別神に分類させる必要があったようだ

 

・速佐須良姫命ハヤコは、娘たちイトウの祈りによって、カルマを背負いつつイワナガヒメへと転生を果たしたと明記されている。

・ワカヒルメ(ヒルコ)の別名がタカテルヒメ・シタテルヒメであることにも着目。これも富士朝神道から脱却し、境界をつくり、歴史と系譜を改竄したうえで、いままでの祖霊信仰を同等以上に続けなければならない矛盾をよく示している。

 

 

この場合のカルマとは、権力者にとって都合が悪い『訳アリ』ということ。善とか悪の定義は神道にはなく、権力者が勝手に決めるものであった。結局祖霊である以上は祭祀を止めるわけにはいかない。あくまで神様を別神に見立てて、他地域では神名を変え、実際は同所同神を祀り続けていたと思われる。前述した衝立船戸神や道反之大神にも、祖霊信仰的御正体はあると思われる。

当時の12代景行天皇は、旧世界(富士朝神道の理)への決別が急務であり、古い神道と境界をつくる必要があった。旧世界から脱却するためには、新世界の境界をつくり、その往来にはもっと特別な力が必要であった。その便利なアイテムが『地返しの玉』であったのではないかと…。

道具は使いようで、逆を言えばこれが旧世界を解くカギにもなりそうなのだ。

 

 

ホツマ以降の神道はずっとこの誤魔化しを強要されてきたように思う。

はじめは古神様→新神様という単純な構図だった。これが神仏習合の時代には神様→仏様へ改竄された。さらには陰陽道や龍神信仰が混ざり複雑化され、明治以降では神社合祀と廃仏毀釈によってさらに誤魔化していたわけだ。栗原神社のワカヒルメと地返しの玉も、この神社合祀による偶然なのかもしれない。そしていま、歴史を逆流するカギさえあればマゴコロアイヒメの解明に繋がるかもしれない(苦笑)。

そしてそれが王子神社レイライン上にあることは、奇跡のシンクロニシティと言えるのではないかと…。

(´(ェ)`)





 

  

 

 

 

 

 

   

龍源院奥『鈴鹿の泉』


      

有鹿の思い出

有鹿奥宮に初めて行ったのは2017年頃、以降この地が気になって合計10回ほど参拝してきた。実際気軽にリラッ熊できる環境で、広場のベンチでホツマツタヱを読んだり、ムカシトンボを追いかけたりして過ごしていた。

そこから中宮『有鹿池』という枯れ池に、湧水をペットボトルに詰めて持っていった事がある。御祭神に喜んでいただけるかなと軽いノリで水を注いだ。そのあと鈴鹿神明社に立ち寄ろうとしたとき鳥居直前で突如ものすごい耳鳴りがした。キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ〜ン!。

あぁこれはヤバい、鈴鹿神がさっきの行動を警戒しているんだなと…。他の土地の者が勝手にやってはいけないことがあるんだなと勉強させられた(よい子の皆さんはマネしないでください、祟られるかも)。

その日は参拝を諦めて、後日あらためて鈴鹿神明社に謝罪に行った。そして富士山の歴史を伝える旨を説明して、勉強させていただきますとお願いした。参拝直後に何となく足が赴いたのが龍源院裏『鈴鹿の泉』だった。『なんだここ?』と…後日インターネットで桜田伝説を知るきっかけとなった。今思うともともと桜田の神と御縁があったのかな?とも思う。一日歩いて全身には、有鹿パンダ日焼けの刻印がされていた…。

 

パンダになれと?(´(ェ)`)






 

 

 

          

  ※有鹿本宮名物?、それは日と月を表しております。




 

おまけ。

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。

 

https://x.com/sekihotu



個人的にネット上ではマークされているらしい。

最近某SNSの機能不全が発覚、伝わるメッセージと伝わらないメッセージがあったようで、身内の介護の件で大喧嘩になる所でした(苦笑)。

YouTubeでは、動画投稿もコメントもしていないのに2回バンされており、『動画投稿できません』とのこと。理由は未だに不明。

 

そんな中、数年前から知っているYouTubeチャネラーさんがいます。この方から多くのインスピレーションをいただいてきました。だけど再生回数は二桁、イイネボタンが一桁です。昔はもっと再生回数があったのですが、最近どう考えてもあからさまに減らされている。もしかしたらサイト運営側から睨まれている札付きの私が、評価しちゃっているからかもしれません。つまり…私がトドメをさしているのかなと。そう考えるとイイネボタンは押さないほうが良いのかな?と躊躇してしまいます(苦笑)。

それでもめげずに自分軸を保ち、やっておられる姿をみて感服いたしております。私のブログを読んでいるかは分かりませんけど、いつも応援いたしておりますm(__)m。

 

世の中、数の論理で真相が見えなくなっております。

とくに選挙期間は要注意ですね(´(ェ)`)



ただいまLINE公式アカウントをしておりますが、昨今のSNS規制もありしばらくメッセージ配信は控えさせていただきます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。今は自分にできることを続けようと思っております。

m(_ _)m

 

 

 

 

 

 

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※地図はクラフトマップ使用

www.craftmap.box-i.net






 

 

ウガヤ朝欠史と、王子たちの富士黒潮トライアルが海神信仰となった可能性?。

 

 

 

日向国の鴨就宮『青島神社』へ
まさか安房国松島とレイラインになっていたとは思わなかった。

 

青島神社『元宮』
早朝参拝、帰りには参拝者が一定数いた。

 

 

 

2025,6,16

 

前記事の続き。

和歌山県新宮市『浜王子』が武蔵国へ勧請され東京都北区『王子神社』になった。またの名を『若一王子宮』『王子大権現』ウガヤフキアエズともいう。

前記事では…。神武東征の折に皇兄・稲飯命と三毛入野命が必勝祈願したのが若一王子であり、海神要素が高いのではないか?との推測がでてきた。だとすれば熊野若一王子=王子権現=マゴコロタケル=海神なのだろうか?。

今回はウガヤフキアエズ時代における海神信仰の重要性を深掘り考察してみた。黒潮と海神と王子権現解明のカギになるかもしれない。



(´(ェ)`)


~目次~

 

東海第二原発は807年空海聖地だった?、大甕神社『御根磯』と吉田氏族『水戸レイライン』 - セキホツ熊の謎を追え!

熊野灘に消された稲飯命・三毛入野命の神武東征武勇伝と、『神風』を呼ぶ謎の大海神?。 - セキホツ熊の謎を追え!

男神アマテルに内在するマゴコロタケル投影?、熊野最重要神『若宮』と忌部の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈東国祖家大国〉瀬織津姫・稚日女命・丹生都姫も祖家女系だった?。忌部は隠蔽された皇族史を祀っていた。 - セキホツ熊の謎を追え!









宮下文書版ウガヤフキアエズ朝とは

 

宮下文書版ウガヤフキアエズ朝をおさらいすると。

神代ニニギ朝に大陸勢力が攻勢をかけてきた。ニニギ御孫ウガヤフキアエズは、富士高天原では北九州への初動が遅れてしまうために、九州高千穂峰遷都を断行した。比定地は日向国周辺を転々としていた可能性があるが、敵襲来の北九州に対して対馬海流、富士高天原に対して黒潮の上流にあたることからアクセスは抜群であった。

富士朝体制を継承しつつ、大陸監視を強化する一方で、富士高天原(山梨県富士吉田市付近)は聖都(宗教的拠点)として堅持された。諱即位式では全51代ウガヤフキアエズ皇太子が富士高天原へ参詣し、事あるごとに勅使を遣わし連絡を密にしていた。宮下文書研究家加茂喜三氏曰く、ウガヤフキアエズ朝全51代は2741年間続いたと算出している。

 

ウガヤフキアエズ朝時代は海洋文化が昇華されていた。宇佐神宮を大本営として日本各地に海洋拠点のネットワークが構築されていた。その中核がワダツミ豊玉彦命八子の末裔たちで伊豆・佐渡・隠岐・対馬・壱岐まで、通信・交易・巡視にまで及んでいたと推測する。

 

(´(ェ)`)









王子たちの母神への誇りが海神信仰となった?。

 

歴代ウガヤフキアエズ皇太子たちには即位にあたり最大の難関があった。これが富士朝『諱即位式』までの大航海トライアルで、太平洋上黒潮に乗って富士高天原へ入麓するものであった。

黒潮は秒速1~2m幅、最大100kmにおよぶ世界最大規模の海流。縄文人にとっても難易度の高い航海であった。それを従者30〜40名(推定)の船団で、九州日向高千穂峰→富士山高天原に黒潮に乗って辿り着く。当然途上で命を落とす皇太子もいたようで、資質以上の強運を問われることになる。命を落とした王子たちは、富士山御祖代神と大自然から審判と判断された。王宮ではそれをありのままに受け止める以外になく、他の皇兄弟へと引き継がれた。



〜高天原トライアルで命を落とした王子たち〜

▲2代ウガヤフキアエズ千穂高王尊項

第二王子奈加尾王命と従者36名が嵐により太平洋上没した。ウガヤ王宮は尾羽張国ホノアカリ御子神・尾羽張彦命から報告を受け、宮中はパニック状態であった。しかし高天原大御神の怒れる業に違いないと判断され、仕切り直して、心身清浄に努めた皇弟の千穂高王を富士朝へ送った。

 

▲39代ウガヤフキアエズ津加田彦王尊項

兄第二王子の多仁彦王尊が高天原途上で急死した(死因不明)。弟の津加田彦王尊が高天原に上がり即位する。

 

▲43代ウガヤフキアエズ波奈長王尊項

兄津真男王命が即位のため高天原への洋上にて沈没。弟の波奈長王尊が即位する。

 

▲48代ウガヤフキアエズ津加彦王尊項

兄忠長彦王命が即位のため高天原への途上、青木ヶ原にて急死。弟の津加彦王尊が即位する。



48代ウガヤフキアエズ津加彦王尊項では、当初は皇兄忠長彦王命が高天原にて諱即位式に上がる予定であった。しかし富士高天原目前の青木ヶ原にて急死した。これは長引いた航海が理由だったのかもしれないが、つまりは天の大御神の怒りであると判断された。仕切り直して弟の津加彦王尊を皇太子に選任し、二十一日間斎戒断食のあと心身を清浄して新たなるトライアルへ挑んだ。

 

ウガヤ王子たちは、富士山御祖霊の男系遺伝子をもち、トヨタマヒメ・タマヨリヒメのワダツミ女系遺伝子を誇りにしていた。稲飯命曰く『私の皇祖は天つ神であり、母は海神の女であると。如何にして賊を海路を許すことができようか』彼らにしてみれば海神信仰への祈願は家系的に自然なことだった。言い換えれば、祈願とは海神信仰であり祖霊信仰といっても過言ではなかった。

 

 

(´(ェ)`)










 

 

 

 

和歌山県和歌山市和田『竈山神社』
宮下文書版ウガヤ51代七王子を祀る貴重な神社。



住吉大神と竃山陵墓のウガヤ的影響

 

前記事で少し触れたが、宮下文書三輪本現代訳p123における海津住神社(対馬一宮?)・貴船神社・住吉神社・西宮神社・竃山神社は皇族や士官の慰霊地であった。西海における戦没神を祀る宮として西宮大神がある。住吉大社にしろ西宮神社にせよ関西人の商売人気質がかなり反映されていると思われる(苦笑)。となると祀られている住吉三神とヱビス(蛭子命)がさらに謎が深まる…。

p78における切枝間神社(霧島神宮?)の起源は初代ウガヤフキアエズ朝に遡り、もともとは陸軍戦死者を祀っていた。この対となり、海軍総大将健磐龍命を阿曽山(阿蘇神社?)に祀り建岩龍命神社とした。

当然これらの神社は、ウガヤフキアエズ神皇たちの鎮魂祭祀が非常に強いと思われる。

(´(ェ)`)



摂津一宮住吉大社の住吉大神とは?。

宮下文書における住吉大神とは、神武皇兄・海津彦五瀬王命のこと。もともと摂津国住吉は筒男命末裔が代々統括していた地域であった。神武東征の折に彦五瀬王命がナガスネヒコ急襲に遭い難波まで退却した。このような経緯から戦後、住吉大神としてこの地に祀られた。現在では住吉三神=海神として知られているが、根底にはやはりウガヤ朝海洋文化が根ざしていたのであろう。

それに加えて海軍配備の一環として、ヱビス曾孫豊玉彦命八子の54代孫ら三柱を本営本陣元帥として『海守三大本営大本陣』を定めた。三宮に津都王三神を配祀した。

 

 

〜津都王三神p133〜

▲上筒之男命…天之世天之神七代の大御神

▲中筒之男命…天之御中世火高見神十五代の大御神

▲底筒之男命…高天原世天神七代の大御神



〜海守三大本営大本陣〜

▲摂津『住吉の宮』上筒之男命を祀る

▲土佐『高加茂の宮』中筒之男命を祀る

▲宇佐『祖古都八ッ幡の宮』底筒之男命を祀る

 

 





彦五瀬命は神武東征中に戦死したので、大和国からかなり離れた紀原の竈山に戦中埋葬された。現在の和歌山県和歌山市和田『竈山神社』の境内、『竈山墓』に比定される。ただ宮下文書を読んでいる人であればお気付きであろうが、なんとウガヤ51代七王子が揃って祀られている非常に貴重な神社だ。ヤタガラスが指し示す意味も分かりやすい。

 

◯『竃山神社』(和歌山県和歌山市和田)

〜主祭神〜

  • 彦五瀬命(宮下文書版皇太子)

 

〜配祀神〜

  • 稲飯命(宮下文書版二皇子)
  • 御毛入沼命(宮下文書版三皇子)
  • 神日本磐余彦命(神武天皇)
  • 高倉下命(宮下文書版六皇子or高座日多命?)
  • 可美眞手命(宮下文書版フトダマ左臣祖家)
  • 天日方竒日方命(宮下文書版アメノコヤネ右臣武部)
  • 天種子命( 中臣氏祖)
  • 天富命(忌部氏祖)
  • 道臣命( 大伴氏祖)
  • 大久米命(宮下文書版七皇子)
  • 椎根津彦命(宮下文書版五皇子)
  • 頭八咫烏命(ヤタガラス)

 

〜宮下文書ウガヤ51代弥真都男王尊七王子〜

  • 皇太子 海津彦五瀬王命(戦死)
  • 二皇子 稲飯王命           (戦死)
  • 三皇子 三毛野入野王命(戦死)
  • 四皇子 日高佐野王命(のちの神武天皇)
  • 五皇子 阿田美椎津彦王命
  • 六皇子 高倉日本王命(富士朝参拝、山背県令)
  • 七皇子 軽身大久保王命(富士朝参拝歴あり)




七皇子軽身大久保王命は、51代皇弟高座日多命(媛蹈鞴五十鈴媛の父神)とともに富士朝参拝に同行して、フツノミタマと富士朝ヤタガラスの御神託を持ち帰る。高座日多命の読み方は不明だが、タカクラとも読める。個人的には神倉神社祭神『高倉下命』に一番近い人物ではないかと思っている。











ウガヤ51代七王子とヤタガラス。山背で何があったのか?




次に京都府『貴船神社』をクローズアップすると

宮下文書では戦死した海軍皇族・将校の神霊を貴船大神とした、この海軍皇族とは天津稲飯王命三毛野入野王命のことを指すと明記している。よってこれらの地域に残るタカオカミ・イワナガヒメらの水神祭祀は、本来は英霊鎮魂目的で祀られていた可能性がある。例えば貴船川→鞍馬川→賀茂川の下流『賀茂御祖神社』『河合神社』に、全51代ウガヤフキアエズ皇后である全51代タマヨリヒメ(多摩夜里毘女尊)を祀っているわけだ。

まさに京都府賀茂川流域はウガヤフキアエズ王族の大霊廟であり、ホツマツタヱではその影響力を暗示させたい思惑があったのではないかと…。だとするとホツマ版別雷命=霧島神ニニギに変更されている理由、また富士朝水神→霧島山軍神に変更された理由が見えてきそうな気がする。

 

〜賀茂別雷命比定神〜

▲ホツマツタヱ→ニニキネ(ニニギ)

▲宮下文書→カモサワヒメ(オオヤマツミ妃・コノハナサクヤ母)

 

ホツマツタヱでは、比叡山麓出雲路に棲むタマヨリヒメが、別雷命(ニニキネ)の放った白羽の矢に当たって懐妊したという。出雲路とは京都にある地名で出雲氏に関係が深いとされるが、どちらかと言うと丹波出雲クニトコタチ霊廟『出雲大神宮』の意味合いが強い気がする。この懐妊で産まれたのがミケイリ(三毛野入野王命)であり出雲の御子とよばれた。この後にウガヤフキアエズの内局になってイナイイ(稲飯王命)を産み、さらに内宮となって神武天皇を産んだ。

 

それにしても…このウガヤ王子たちの複雑怪奇な系譜は一体何なのだろうか?。

結局ホツマツタヱがやりたかったことがウガヤ王朝2代〜51代の完全欠史なわけで、宮下文書と比較すると不自然としか言いようがない。おそらくはホツマ成立の10代崇神天皇〜12代景行朝が、出生順と逆行する神武皇兄の序列を明確にしたかったのであろう。歴代改竄ポイントとして皇位継承権を明確にする点が挙げられる。これはイナイイやミケイリ末裔に皇位継承権を絶対に主張させないためでもあるのだ。一子相伝の家系には仕方のない面もありそうだ。大和朝廷らは暗に彼らの子孫を、表には出せないヤタガラスとして恐れ疎んでいたのかもしれない。

このように罪悪感に憑依された権力者たちが一番恐れているのは、祖霊信仰上の祟りだった。ただ子孫が生きていく上で、祖先への鎮魂・感謝を怠るわけには行かなかったのだろう。祖霊信仰では子孫がいる限り祖先の鎮魂・感謝は、何らかのカタチで行われている。それはたとえウガヤフキアエズ朝が欠史されても、奉祀者たちが起源を忘れてしまっていても。どこかで継続されているハズである。


※個人的にはその一つが、富士山〜高千穂峰レイライン上にある武蔵国府大國魂神社の奇祭『くらやみ祭り』だと思われる。大國魂神社のシンボルはクニトコタチが愛した霊長カラスである。

エタモヒ大伴武日は武蔵国でシンクロする、富士太神宮鳴門阿蘇のレイライン大交差点。 - セキホツ熊の謎を追え!



(´(ェ)`)








 

 

 

紀の松島



何故熊野なのか?熊野は男系祭祀なのか?

 

熊野灘の『灘』というのは海の難所という意味、海流・潮流が速く航海が難しい海域。海岸近くはリアス式海岸もあり岩礁・暗礁が多い一方で、黒潮大蛇行が発生すると漁業・海運・気象にも左右される。しかしなぜこんな山多き半島に熊野信仰が根づいたのか?。

そもそも熊野信仰を創建したタマノオヤ大宮司御子ウサミが、海洋性の強い軌跡を残してきた。伊豆国伊東に生まれたウサミはタマノオヤの西国賊軍平定に従い、西方諸々の州国を『久眞(くま)なく治めた』ので久眞野山に久眞野の宮を建てた。つまり富士朝大宮司家御子による歴代皇祖神をテーマとした戦勝記念祭祀なのである。そこにイザナギ・イザナミ・アマテラス・アメノオシホミミ・タマノオヤは確実に祀られており、皇祖マゴコロタケルが祀られていない方がおかしいかもしれない。現在の熊野祭神から推測するにイザナミ・アマテラス以外は皇祖男系祭祀が強いようだ。そしてホツマツタヱにおける男神アマテラスの斎名『ワカヒト』となり、若=王子=男系祭祀というそのままの意味なのではないかと。

クニトコタチ男系は子宝に恵まれなかった。一人っ子マゴコロタケルから、一人っ子アメノオシホミミが誕生し、スサノオ女系タクハタチヂヒメの血を得てニニギ・タマノオヤら八王子神が誕生した。時期的には天神七代からの四季島統治再編とかさなり、牛頭天王八王子権現の始まりを祝うことになった。クニトコタチとクニサツチは七王子。阿族にとって七王子から八王子への変革は大きな意味を持つ。ただ記紀成立後は、マゴコロタケルはアメノオシホミミ義母である女神アマテラスと同一視されていったようだ。

いみじくも最後の神皇・ウガヤフキアエズ51代は七王子を残す。その七王子が熊野地域を拠点として新しい日本と大和朝廷を作り出したわけで、若一王子の意義も見えてくる…。


ここから神武東征にて紀伊半島に行宮を置いた理由も見えてくるわけだ。宮下文書版神武東征に登場する日高の宮比定地は不明。ただ通説では新宮市神倉神社の天ノ磐盾(あまのいわたて)に拠点を置いていたといわれている。つまりは紀伊半島熊野は戦略上の重要拠点、東の富士朝高天原』と西の高千穂峰ウガヤフキアエズ朝の連携を重視していたのだ。

さらに黒潮に最も接近している本土中継地も重要なポイント。西国の戦況をいち早く把握でき故郷の伊豆半島にも近い、やはり東西平定においては適任地であったのだ。

こうして熊野信仰は航海上や日常生活における祈願を集め、ワダツミ八子末裔により紀伊半島・伊豆半島・三浦半島・房総半島などにも伝播されたと思われる。

 

(´(ェ)`)

 




 

 

 

忌部氏海人要素がチラつく『若』のワケ。

 

『若』のネーミングは、宮下文書版忌部氏といわれる忌部若道命にも由来していそうだ(詳細は前記事にて)

紀伊半島那智勝浦と房総半島勝浦は同義で、勝占の忌部という人物に因んでいるという。天日鷲命末裔を称する勝占忌部須須立命は、房総半島の開拓神となって『遠見岬神社』を創建した。ここから『勝占(かつら)』→『勝浦(かつうら)』となったという。

阿波国式内社『勝占(かつら)神社』があり、神社由緒書によると『勝ちを占める』縁起がある。また出雲系海人豪族が拠点としていたというが…個人的にはこれはタマノオヤ系天日鷲命(後述)のことではないかと思っている。伊豆国白浜の伊古奈比咩命神社にも、忌部氏の伝承が多少残っているという。だとするとまさにウガヤ朝王子たちが目指した太平洋黒潮ルートではないか???。

このようにもともと忌部氏には海人族要素があるわけで、黒潮沿い房総半島への航路から紀伊半島や伊豆半島にかけて、彼らの痕跡があっても何らおかしい事ではない。当ブログでは忌部連はフトダマ祖家・タマノオヤ安曇・ワダツミ系が混在しているとみている。例えば忌部祖神の一柱である天日鷲命は、タマノオヤ53世孫・日鷲気留木彦命と比定する。神武天皇時代に穴門摂津県令に任命されており、阿波を含めた瀬戸内海の管理を行っていた人物とみられる。

もし彼らが安房国マゴコロタケル祭祀を担った立場であれば、祖とする忌部若道命の武勇伝を残そうとした思惑があったに違いないと…。ホツマツタヱ成立以降マゴコロタケルの存在が曖昧にされ、忌部若道命の存在が忘れられると、『若』の隠語だけが残されていったのかもしれない(妄想)。

 

熊野灘に消された稲飯命・三毛入野命の神武東征武勇伝と、『神風』を呼ぶ謎の大海神?。 - セキホツ熊の謎を追え!

 







 

 

 

 

 

鴨川松島



黒潮航路沿いの『若』信仰。

 

黒潮の流れの果てに阿和礼住(安房国)があった。阿波で生まれたマゴコロタケル=若一王子の新天地であり、古代神道においては阿波と並んで大きな聖地だったはずである。阿波・安房忌部氏はこのクニトコタチ男系皇祖神の祖霊祭祀を任されていた。仏教由来の補陀落渡海船でも、熊野灘を出発して極楽浄土への宗教行の根底には、このような東国常世への祖霊信仰が背景にあったと思われる。

※通説では若一王子=アマテラスなので注意。



〜安房紀伊・松島レイライン〜

 

  • 大波月海岸ロウソク岩(282mズレ)
  • 墨名熊野神社(1181年伊藤祐範の創建)
  • 遠見岬神社(勝占忌部須須立命の創建、1㎞ズレ)
  • 小湊神社(アマテラス)
  • 誕生寺(日蓮生誕地伝承)
  • 鴨川弁天島・厳島神社(円仁=慈覚大師の創建)
  • 鴨川松島
  • 九頭竜稲荷神社(1kmズレ)
  • 安房総社六所神社(安房国府付近)
  • 安房総社鶴谷八幡宮
  • 安房一宮洲崎神社(御神石)
  • 伊豆白浜・伊古奈比咩命神社(元三嶋伝承)
  • 走湯神社(下田市大賀茂)
  • 伊豆吉田海岸・吉田白鳥神社
  • 紀の松島
  • 青島神社(鴨就宮)
  • 大淀川と檍神社(イザナギ祓所伝承、天神七代、ヤソマガツヒほか)
  • 知覧町護国神社(1kmズレ)
  • 旧陸軍知覧滑走路跡(神風特攻隊出発の地)
  • 天御中主神社(枕崎地区最古の妙見神社)
  • 坊の岬灯台
  • 戦艦大和撃沈の海(北緯30度43分・東経128度04分から16kmズレ)

 

※この海神レイライン上には、神風特攻隊出撃地と戦艦大和撃沈海域も含まれる。マゴコロ夫妻もこれを見守っていたのか...???

 

 

『さんよりこより』に見る妹背論、瀬織津姫とマゴコロ夫妻は飛騨一宮『位山』を示す?。 - セキホツ熊の謎を追え!



一方、黒潮沿い土佐国を見て気付くのは、土佐国は若宮・若一王子宮だらけだ。因みにマゴコロタケル生誕地と思われる阿波国には若宮が多い。土佐で有名な桂浜(かつらはま)も嘉列浜・嘉津浦浜・勝浦浜と呼んでおり、忌部氏が関与していたとする説もある。

四国高知県香西市にある『若一王子宮』は、熊野若一王子ことアマテラスを勧請したとのこと。社記によれば、村上永源上人なる人物が紀州熊野から十一面観音のお厨子を背負って来たといわれる。年三回非公開で行われる奇祭に『烏喰儀』または『お烏喰御膳上げ』があり、これも熊野権現に因んでいるという。かつては紀州熊野神社(権現)と山城国若一神社(京都市下京区)と三社で行われていたが、現在は当宮のみで行われている。

逆にいうと…忌部が幅広い活動側面をもつ故に、若一王子が海神信仰に見えるだけとも言えそうだ(苦笑)。つまりマゴコロ夫妻の海神的要素も、奉祀した忌部氏海人族要素の一側面だったのかもしれない。

 

だけ...?(´(ェ)`)



 







 

 

 

2024年8月11日・11時11分到着の安房鴨川『厳島神社』、あわうたを奏上した。
奇しくもこの翌日、早地峰山では台風5号が上陸した…。



〈追記〉大本と九鬼氏、熊野に接点?。

 

この地域の海神信仰は平安期以降の熊野水軍、室町期以降の九鬼水軍らの海神信仰も関係がありそうだ。

熊野本宮大社の八庄司一派が、九木浦(九鬼浦)を拠点として九鬼を称した。戦国時代の九鬼水軍はこの九鬼嘉隆が志摩を拠点に率いたときの水軍で、織田信長や豊臣秀吉を支援し『鉄甲船』を建造した。

一方で大本教発祥地・綾部はかつて九鬼家旧領であった。出口ナオは九鬼家の屋敷にあった本興稲荷を崇敬していたという。そこで啓示を得ていたとする説もある。これが九鬼文書を残した九鬼氏との接点となる。この本興稲荷神社は九鬼隆季が伏見稲荷神社から勧請したものとされるが、熊野三山の奥の院『玉置山』から勧請したという説もあるようだ。

というか…そもそも伏見稲荷大社の元宮が、玉置神社摂社『三柱神社』とする説があるようだ。熊野別当の末裔とされる九鬼家からすれば、玉置神社のほうが自然な流れなのかもしれない。




◯『玉置神社』(奈良県吉野郡十津川村)

〜御祭神〜

  • 国之常立神(大本では丑寅の金神といわれる)
  • 伊弉諾尊
  • 伊弉冊尊
  • 天照大神
  • 神日本磐余彦命

 

〜摂社末社〜

  • 三柱社(倉稲魂神・天御柱神・国御柱神)
  • 若宮社(住吉大神・八幡大神・春日大神)
  • 神武社(迦具土神・速玉男神・高倉下神)
  • 玉石社(大巳貴命)
  • 白山社(菊理媛神)
  • 山之社(大山祇神)
  • 大日堂社(役小角)



当ブログでは稲荷信仰=皇祖神として見ており、ウケモチ=サルタヒコ父神オオトノヂ、豊受大神=クニトコタチと考える。もし熊野の歴代皇祖神クニトコタチや淡津佐国地主神マゴコロタケルが大本と関係していたのであれば、岡本天明や日月神示、麻賀多神社に関係してもおかしくはないと思われる。

 

 

(´(ェ)`)




 

 

 

 

 

 

 

 

青島の朝焼け

 

 

おわりに

 

  • 2017年10月伊豆国『伊古奈比咩命神社』参拝。
  • 2023年11月日向国『青島神社』を参拝。
  • 2024年5月紀伊国『竃山神社』を参拝。
  • 2024年8月に安房国『鴨川松島』へ。
  • 2025年5月に熊野灘『浜王子』『紀の松島』へ。

これらが、黒潮上2つの松島のレイラインとなっていることには気づかなかった。黒潮大蛇行が始まったのがなんと2017年8月で、8年の歳月後2025年に潮岬『潮御崎神社』参拝直後にあっさり終息するとも思わなかった(苦笑)。

もちろん因果関係は全て不明ですが…。

(´(ェ)`)

今思うと今回の記事を書く布石だったのかなと思う。2024年竃山神社へ行った時点で、ウガヤ51代七王子と八咫烏を拝して、『富士朝とウガヤフキアエズ朝の歴史を伝えられる人間になります、頑張ります』と誓った。何となくフラフラ行った感も否めないが、少なくとも知りたい、誰かに伝えたいという明確な意図があった。

最近思うに、これは運命というよりは、意思あるところに道が開けたのではないだろうか?。自らの使命を探すのに時間をかけて頑張るよりも、思ったこと、感じたことをとりあえずやってみることをおすすめします。ただし人間はうつろい易く、飽きっぽいので、8年間貫くには『頑張り』が必要でした。

そして忘れた頃に道は開けます(´(ェ)`)。

 

稲飯命さまと三毛入野命さまにお導きを得られるとは思わなかった。勝手ながらここまで手助けしていただいたと考えております…。

ありがたいことです(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。素朴な疑問なんですけど、宮下文書を語っているのにシャドウバンされてない人は、大衆操作に加担しているネット工作員か情報攪乱要員と考えてよいのでしょうか?。

ま...素朴な疑問なんですけど (´(ェ)`)

 

 

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※地図はクラフトマップ使用

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東海第二原発は807年空海聖地だった?、大甕神社『御根磯』と吉田氏族『水戸レイライン』

 

東国常世の国に、伊勢地主神スクナビコナを祀る?『酒列磯前神社』参道。

 

2025,6,2

前記事では和歌山県新宮市『浜王子』をご紹介した。ここから勧請された武蔵国王子神社のレイラインを調べていたのだが…、偶然すんごい空海807年聖地を発見した。関東圏というのは富士朝大宮司家『吾嬬惣国』の地、どんな古神道がでてきてもおかしくはない土地ではある。とくに中世〜戦国、古豪佐竹氏によって隔離状況が保たれてきた常陸国。

2024年11月熊オッサンが気まぐれに筑波山へ行ったのだが…、そのとき足を伸ばして水戸巡りへ向かった。これが今回のレイライン発見への布石だったようで、芋づる式に水戸市内に張り巡らされた結界?が浮き彫りとなる(苦笑)。

なんかいろいろ予定変更しておりますが、風まかせの神社歴史ブログです。

m(_ _)m



本日は常陸国をクローズアップします(´(ェ)`)。

 

~目次~

 

熊野灘に消された稲飯命・三毛入野命の神武東征武勇伝と、『神風』を呼ぶ謎の大海神?。 - セキホツ熊の謎を追え!



 

 

 

 

常陸〜王子〜淡島のレイライン。

 

まずご紹介するのが、常陸〜王子〜淡島のレイライン。紀伊国浜王子は武蔵国『王子神社』へ勧請された。さらに王子大権現を勧請されたのが、前述のワカヒルメを祀る相模国『栗原神社』方面へレイラインとなっていることが判明。奇しくもこれらが常陸〜王子〜淡島へ、水戸市内を貫通するラインとなっている。この詳細はまた次回?予定。

 




〜御根磯淡島レイライン〜

  • 御根磯(大甕神社祭祀場)
  • 東海第二原子力発電所
  • 阿漕ヶ浦(伊勢祭祀由来?)
  • 村松大神宮(1.3kmズレ、708年内宮勧請)
  • 豊受皇大神宮(709年外宮勧請)
  • 村松虚空蔵尊(807年空海創建)
  • 熊オッサンが磯前参拝で泊まったホテル
  • 水戸城跡
  • 常陸三宮吉田神社(日本武尊伝承)
  • 茨城県庁
  • 常陸国分寺跡
  • 常陸國總社宮(600mズレ)
  • 桜川・水天宮
  • 熊オッサンが筑波山巡りで泊まったホテル。
  • 西新井大師總持寺(800mズレ、空海開基)
  • 王子稲荷神社(太田道灌崇敬)
  • 王子神社(太田道灌雨宿り伝承)
  • 中野氷川神社(源頼信創建、太田道灌伝承)
  • 大宮八幡宮(700mズレ)
  • 熊オッサンの母方墓所
  • 和泉熊野神社
  • 宗源寺(富士吉田の秩父平氏畠山氏末裔・吉田宗利)
  • 長津田・王子神社(1.7kmズレ)
  • 栗原神社(王子神社勧請、ワカヒルメ)
  • 有鹿中宮
  • 相模五宮有鹿神社
  • 愛甲石田(宮下氏流愛甲氏、三浦氏流石田氏)
  • 高部屋神社(式内社)
  • 太田道灌首塚
  • 伊勢原大神宮(700mズレ)
  • 鴨宮・加茂神社(北条政子安産祈願)
  • 小田原城(700mズレ)
  • 寶船山高源寺(頼朝と文覚伝承)
  • 冷川神社
  • 雷電神社(旧伊豆山大鳥居跡)
  • 初姫神社(式内社)
  • 肥田神社(ひた王子、阿波命?)
  • 伊豆淡島(宮下文書版ヱビス拠点)
  • 鮑玉白珠比咩命神社(式内社、鮑=阿波毘)











 

 

大甕神社の祭祀場『御根磯』とは?。



当記事で何回かご紹介した『大甕神社』をおさらいすると。

創建は皇紀元年(紀元前660年)。

日本書紀にも記載されており、大甕山上に陣取り強大なる勢力をふるっていた天津甕星の荒魂を、巨岩に封じて創建。柳田国男『日本の伝説』などによると、石名坂の峠の巨石を静の神(常陸二宮・静神社)が鉄の靴で巨石を蹴った。巨石は分裂して、破片の一つが河原子(茨城県日立市)や石神(茨城県東海村)たどの地域へ飛ばされた。

神社はもともと大甕山に存在していたが、1689年(元禄2年)徳川光圀によって大甕神社内にある現在地宿魂石の上に遷座された。

 

◯『大甕神社(大甕倭文神宮)』(茨城県日立市大みか町)

〜主祭神〜

  •  建葉槌命

〜地主神〜

  • 甕星香々背男命

 

△節分祭(2月3日)

△例大祭(5月5日)

△甕星祭(7月7日)

※祭事日からも富士朝信仰と関係が深いことがわかる。

 

この巨石を静の神が蹴り飛ばし、四方へ飛び散ったものの一つが、太平洋日立沖レイライン上『御根磯』といわれる。その他の場所にも神社が残っているという。

▲東海村石神『石神社』天手力雄命(創建不明)

▲城里石塚『風隼神社』武甕槌命(806年創建)

▲笠間石井『石井神社』建葉槌命(807年再建)

風隼神社は後述する水戸レイライン上にある。



 

 

茨城県日立市大みか町『大甕神社』

 

 

 

 

 

 

 

建葉槌命と香々背男命

 

宮下文書研究家加茂喜三著『日本の神朝時代』p289によると。初代ウガヤフキアエズ即位後の九州遷都計画は、高天原の天つ神国つ神八百万の神々(臣民のこと)の議論を分断させた。

当時星読みで吉凶を占っていた星山の天香々背男が、『西征(ウガヤフキアエズ九州遷都)は豊阿始原ノ国を二分にする結末となる』と予言した。これを聞いた反対派が結集して、神皇ウガヤフキアエズの富士朝から九州への出陣を妨害したという。このため常陸国タケミカヅチが健羽雷命を当地に派遣してこれを鎮圧し、ウガヤフキアエズの西征を促した。健羽雷命はそのまま星山に棲みつき織物・製紙を生業とした。

星山とは現在の静岡県富士宮市星山の式内社『倭文神社』のことで、境内由緒書にも酷似した伝承が記載されている。周辺には星山黒田遺跡群があり、神社は浅間大社社家の富士氏を祀っていた。宮下文書における富士氏は二所明神(阿祖山太神宮)副司家系と見られる。富士朝祭祀が非常に強かったと見ている。

 

◯『倭文神社(浅間大社旧摂社)』(静岡県富士宮市星山)

 

〜御祭神〜

  • 健羽雷神

〜合祀〜

  • 大屋毘古神
  • 大山祇神
  • 熊王山神
  • 高皇産靈神
  • 伊邪那岐神

※御祭神は下照姫命・拷幡千々姫命という説あり?

※※ホツマ版シタテルヒメ=ヒルコ

 

 



日本書紀によると、644年(皇極天皇3年)不尽河(富士川)沿いの大生部多にて。常世の神として虫を祀り、歌や踊りに興じて仕事もしない民がおり、秦造河勝がこれを討伐したという。どこか天香々背男命と健羽雷命を彷彿とさせるエピソードである…。

まとめると…。常陸国地主神タケミカヅチの命令で健羽雷命が、常陸国大甕山から駿河国星山へ派遣されたと推測。九州遷都が大和朝廷となり、富士朝旧勢力無視→弾圧の6000年?の歴史の流れを考えれば、天香々背男の星読は間違っていなかったのかもしれない…。

 

807年成立忌部氏末裔が編纂した『古語拾遺』では健羽雷命が天羽槌雄神と比定される。『日本書紀』では倭文神・建葉槌命、『安房国忌部家系』では天羽雷雄命、または武羽槌命、止与波豆知命とある。倭文神・棚機姫命とともに忌部氏が関係していた点にも注目する、天羽槌雄神の末裔を称する倭文氏が祀っていた。

当ブログでは何度も触れているが、宮下文書版空海と坂上田村麿は800年延暦噴火以降の富士朝復興と各地鎮魂祭祀を、朝廷側から任されていた節がある。これが大同元年(806年)創建の常陸二宮・静神社の伝承にもシンクロするわけで、東国広域がその対象範囲となっていた可能性はある。

 

 

※因みに。前述のようにホツマツタヱにおけるワカヒルメ(ヒルコ・ワカヒメ)の生誕地が筑波となる。前記事でも述べたように常陸国筑波山南麓『蠶影神社(蚕影山神社)』は国内蚕業発祥地としてワクムスビを祀る。筑波山を挟んだ北麓には『歌姫神社』にワカヒルメを祀っている。これら御祭神が日月神示発祥『麻賀多神社』のコンビネーションと一致している(後述)。







 

 

 

 

 

茨城県水戸市八幡町『水戸八幡宮』





東海第二原発にあった常陸国807年大聖地。

 

当ブログでご紹介してきた各レイライン。何処もなぜか軍事基地とか研究機関、大学が多いような印象も受ける。そして今回、東海第二原発が807年空海聖地なのをはじめて知った。



◯『村松大神宮』(茨城県那珂郡東海村村松)

〜御祭神〜

  • 天照皇大神
  • 天手力男命(静神社、戸隠神社の御祭神)
  • 萬幡豊秋津命(アメノオシホミミ皇后)

 

◯『豊受皇大神宮』

〜御祭神〜

  • 豊受大御神



38代天智天皇と蘇我姪娘の娘43代元明天皇の時代。和銅元年は大きな政治改革があり、平城京造営開始や、日本最初と見られる和同開珎の鋳造が開始された時代。このとき東国に多くの祭祀権をもっていた蘇我氏の影響力も拡大していたと見られる。

村松大神宮社伝によると和銅元年(西暦708年)4月7日、ちょっとした怪奇事件があったようだ。磯前浦の巨巌が怪光を発し、その光は眞崎の浦に留まったという。住民が占ってみると伊勢の神という。垂示に従ってこれを奉斎、祀職を伊勢から呼んで奉仕したという。これら聖地が前述した大甕神社祭祀と関係があるのならば、宮下氏族那珂氏が拠点としていた久慈川河口域一帯の大聖地が浮上してくるわけだ(那珂氏については後述する)。

因みに…ここでいう伊勢の神というのは、宮下文書における伊勢地主神スクナビコナの可能性もありそうだ。現在の大洗磯前神社と酒列磯前神社の御祭神である。



・708年(和銅元年)10月 伊勢神宮に平城宮造営を告げる

・708年村松大神宮創建(内宮分霊)

・709年豊受大神宮創建(外宮分霊)

つまり平城京遷都計画への布石だったのか…?

 

延暦噴火後806年(大同元年)、50代桓武天皇謎の崩御、これにより一時的な平安京→平城京へ回帰主義が発生する。これは800年延暦噴火が山城国オオヤマクイ・カモサワヒメらの逆鱗ではないか?という人々の憶測によるだろう。常陸国では51代平城天皇より村松五所大明神の勅号を賜り、伊勢・加茂・祗園・稲荷・春日神を祀ったという。

和同708年と大同807年のシンクロニシティ?。

(´(ェ)`)




続いて『村松虚空蔵尊』伝承によると。

807年(大同2年)に空海が、大神宮隣りに虚空蔵尊菩薩を開基、光る老木から虚空蔵尊菩薩の等身座像を彫り上げたという。51代平城天皇から村松山神宮寺の勅額を賜る。

1060年(康平3年)源頼義・義家父子が奥州討伐の折に戦勝祈願、社殿の造営・神領の寄進した。

その後平安末期から約500年間、常陸国を治めていた佐竹氏の庇護を受け、近世には徳川家康公から朱印地が寄進され、徳川光圀(水戸黄門)が神鏡を奉納し、伊勢豊受皇大神宮を奉遷した。

 

 

そしてなんの因果か…現在この聖地には東海第二発電所が存在している。

(´(ェ)`)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

式内社名神大社・常陸三宮『吉田神社』




常陸国那珂郡とは?

 

宮下文書三輪本現代訳p251によると。そもそも那珂郡は宮下氏族那珂氏の拠点だった。宮下家2代目宮下源太夫明政の第三王子・吉田三摩古彦が日太地国県主となり、この吉田氏がいつからか那珂氏を称す。つまり高天原比定地の山梨県富士吉田市と語源は同じ。

ただ通説では諸説あり。平安時代末期藤原秀郷流公通が太田太夫となって、久慈郡太田郷を拠点とし、那珂川北部と久慈川南部に挟まれた当地を領して那珂氏を称したということになっている。この那珂郡南部が吉田郡として分離し、この付近が奥州(東北圏)と坂東(関東圏)の境目とされる。平安期から南北朝まで清和源氏佐竹氏と争うことになるが、婚姻関係もあった。

那珂川流域水戸市付近には式内社名神大社・常陸三宮吉田神社があり、久慈川流域久慈郡大子町池田には807年創建八幡宮旧跡に吉田神社がある。

 



◯常陸三宮『吉田神社』(茨城県水戸市宮内町)

〜御祭神〜

  • 日本武尊 

※式内社名神大社

 

神社伝承によると、ヤマトタケル東征の折に朝日山(三角山)で兵を休ませた。ただ常陸国風土記には那賀郡における東征説話が見えない。因みにホツマツタヱ版朝日神とはトヨケの諡のことで、宮下文書では豊受大神=クニトコタチに比定できる。

当地は古代からの富士朝影響力が強かったとみている。




吉田大掾氏(常陸吉田氏)も佐竹氏と婚姻関係あり。通説(wikipedia大掾資幹)によると諸説ある。常陸平氏惣領が大掾職を継承、1193年(建久4年)常陸政変より多気氏→吉田氏(馬場氏)惣領・大掾職の交替があったと考えられている。ただこれを裏付ける文献はないようだ。

その後江戸時代、常陸を治めていた佐竹氏は、出羽国久保田藩へ転封される。その後2代目水戸藩主徳川光圀は水戸藩内八幡潰しを敢行、古来からの八幡信仰を潰し回ったという。これも彼らが宮下氏族吉田氏や那珂氏、応神天皇末裔による古神道の影響力を恐れていたと考えると辻褄が合う。因みに光圀には、有名禁足地『八幡の藪知らず』に単身入り込んで八幡神の逆鱗に触れ、やっとの思いで生還できたという意味深なエピソードがある。

 

熊オッサン的には、本来は富士朝宮下氏族吉田家なのではないか?と見ている…。だからこそ古来から富士朝祭祀色が強く、朝廷・鎌倉〜徳川幕府も迂闊に介入できなかった地域なのではないか?と…。


(´(ェ)`)











水戸は徳川光圀の結界都市だった?

 

今回分かったのは…水戸には少なくとも3本のレイライン交差があること。



〜松島鴨川レイライン(北から)〜

  • 松島蓬莱島
  • 瑞巌寺五大堂(1.2kmズレ、田村麿、円仁伝承)
  • 多祁神社奥宮(田村麿伝承)
  • 花園神社(奥の院峰、807年田村麿、円仁伝承)
  • 松岩寺(徳川光圀本寺替え)
  • 黒前神社(竪破山、田村麿霊夢、円仁伝承)
  • 馬場八幡宮(900mズレ、源頼義勧請、馬場大掾氏?)
  • 稲村神社(式内社、ニギハヤヒ、日本武尊伝承)
  • 妙福山佐竹寺(807年開基、佐竹氏の由来)
  • 水戸八幡宮(佐竹氏による馬場八幡宮勧請)
  • 別神皇太神(関東三雷神)
  • 偕楽園
  • 常磐神社(徳川光圀・徳川斉昭を祀る)
  • 茨城県庁
  • 麻賀多神社(ワクムスビ・ワカヒルメ船形奥宮)
  • 麻賀多神社(ワクムスビ・ワカヒルメ台方里宮)
  • 皇産霊神社(佐倉飯塚)
  • 高瀧神社(ニニギ・別雷命、京都賀茂神社勧請)
  • 鴨川富士
  • 鴨川松島(2.3kmズレ、円仁が厳島神社創建)
  • 鴨川・金剛院(2.3kmズレ円仁と弁天伝承)
  • 九頭竜稲荷神社



華園山縁起によれば、763年(延暦2年)坂上田村麿が奥州征伐の帰路霊夢を見て、五つの峰(東金砂・西金砂・真弓・竪破・花園)に祠を建てたという。これを常陸五山という。つづいて861年(貞観3年)に円仁こと慈覚大師によって堂が建てられ比叡山(山王権現)が勧請された。

 

 

黒前神社(竪破山)

東金砂神社

西金砂神社

西金砂神社

真弓神社

泉神社

御根磯(大甕祭祀場)

と『くの字』のレイラインとなっている。

日月神示発祥地『麻賀多神社』御祭神がワクムスビ・ワカヒルメ。当ブログでは宮下文書版淡津佐国(上総・下総・安房)地主神マゴコロ夫妻ではないかと見ている。后マゴコロアイヒメの諱が松島毘女命であり、鴨川松島にて円仁の前に出現して弁財天なのではないかと見ている。比叡山延暦寺第3代天台座主円仁が、東国で何をやっていたのかが浮き彫りとなるだろう…。

 

 

 

関東三雷神『別雷皇太神』、偶然にもこの日は秋季例大祭であった。




〜那珂川沿いレイライン(南から)〜

  • 華光山蓮乗寺(元吉田町)
  • 常陸三宮吉田神社(上記レイライン交差点)
  • 水戸東照宮
  • 水戸八幡宮(上記レイライン交差点)
  • 二十三夜尊桂岸寺
  • 水戸愛宕神社(大掾氏祖・平国香勧請)
  • 風隼神社(前述の大甕神社巨石伝承の一社)
  • 石船神社(式内社)
  • 赤沢富士(道鏡が住んでいた伝承?)
  • 伊勢畑・吉田神社(600mズレ、旧若宮八幡)
  • 吉田富士山古墳
  • 那須八幡塚古墳
  • 御霊神社(那須与一宗隆の分骨伝承)
  • 乃木神社 (那須塩原市)
  • 白山神社(式内社、新潟総鎮守)



もう一つのラインがおおよそ常陸国那珂川に沿って存在する。

特筆すべきは那珂氏族末裔といわれている江戸氏の存在で、大掾氏(平国香流馬場氏)によって築城された馬場城(水戸城)主であった。ここからも佐竹氏と那珂氏と馬場氏(大掾氏)の三つ巴の因縁関係が垣間見れる。ライン上『華光山蓮乗寺』は那珂氏流江戸氏が、大本山中山法華経寺から正覚院日慈上人を招き開基した。

因みにこの大本山中山法華経寺は下総国総鎮守葛飾八幡宮の西1.6kmで、葛飾八幡宮には前述した『八幡の藪知らず』がある。

 

ライン上『赤沢富士』も興味深い。なんと769年『宇佐八幡宮神託事件』の首謀者・道鏡(弓削道鏡)が配流伝承があり。ホントかウソかなんと熱愛関係にあった48代称徳天皇も隠棲していたというのだ。通説では称徳天皇崩御後に下野国薬師寺別当に任じられ左遷され、下野国(栃木県下野市)で没している。奇しくも円仁生誕地伝承のある壬生寺に近い…。

結局、宇佐八幡宮神託事件って…富士朝信仰が絡んでいたのではないだろうか?と。東国信仰勢力が西国政治勢力にスケープゴートされた可能性もあるんじゃないのかなと…妄想。


(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

最果て『大洗磯前神社』御来光、
…何故東国に伊勢地主神スクナビコナを祀るのか?わかったような気もする。

 

 

おわりに

 

正直、東海村にこんな大きな聖地があるなんて知らなかった…。虚空蔵尊菩薩すぐ隣には1999年9月臨界事故で有名な東海第二原発がある。古代からの聖なる海と大地は放射能で汚染された可能性あり。

熊オッサン的には、別に日本人カルマに拘っているわけでもないのだが…。地図上で聖地を辿っていくうちに日本人の業の深さも目についてしまう。

かといって原子力発電所は地域の生活に根ざしており、那珂郡東海村の人々も好きでこうなったわけではないだろう…。私たちは欠史の犠牲の上に成り立っており『知らなかった』という一言が何を意味しているのか理解し始めていると思う。だから様々な視点をもつことで、昔から知っている地元の人々の苦労にはじめて気づくわけだ…。それは富士朝で宮下文書を必死で守ってきた人々にも言えることなのだろう。

結局カルマというのは『私には関係ない』『知らなかった』『どうしようもない』というのが原因になるのではないかと…。少なくとも熊オッサンは、歴史に対してはありのまま、目の前の真相を真摯に受け止めて、伝えていこうと思っております。

 

次回へつづく(´(ェ)`)

 

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

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※地図はクラフトマップ使用

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熊野灘に消された稲飯命・三毛入野命の神武東征武勇伝と、『神風』を呼ぶ謎の大海神?。

 

 

 

 

 

神武東征伝承が残る、三重県熊野市甫母町『阿古師神社』



 

 

2025,5,18

GWに本州最南端の潮御崎神社を参拝した約10日後、潮岬の『黒潮大蛇行』が終息の兆し…というニュースが飛び込んできた。黒潮大蛇行は実に2017年から八年間弱ずっと続いており、沿岸の漁業に大打撃を与えていたようなのだが…。xは過疎ってて誰も構ってくれず、仕方がないので一日中オッサン一人でニヤニヤしていた(苦笑)。これもシンクロニシティなのだろうか?、だけど一人の放浪オッサンの祈りの力とも言い切れないわけで…なんか複雑な心境っス。

(´(ェ)`)

 

で…今回あらためて『潮御崎神社』の地理状況を見直すと。なんと今回熊オッサンが巡礼した神社数社が潮岬までレイラインとなっていたことが判明。前回は出雲からのラインであったが、今回は伊勢からのラインを見つけた。カギとなっていたのが神武東征時代にこの地域で入水した?二柱の王子。宮下文書三輪本現代訳p116にはその驚愕の真相が隠されていた。

彼らが祈願した謎の海神の影がチラついてくる。



(´(ェ)`)

 

 

~目次~

<神社めぐり>本州最南端出雲『朝貴神社』『潮御﨑神社』と、出雲と熊野すり替え解明レイライン? - セキホツ熊の謎を追え!






 

 

宮下文書における『神武東征』とは?

 

宮下文書ウガヤフキアエズ51代即位36年。

中国(おそらく中国地方)を拠点としていた白木人(新羅人?)禍津亘理命が、ウガヤフキアエズ46代皇子・天之明立農鋤命玄孫の真佐勝彦命を奉じて蜂起した。総司令として長髄彦命を立て勢力を急拡大させた。大河山・山表・山背・木山・泉津の五区国(おそらく関西圏)の令を殺害し、ウガヤ勢力である海津彦五瀬王命を襲撃した。

関西〜中国地方半数は既に白木人らに操られており、皇軍は東国旧勢力オオクニヌシ・コトシロヌシ・スサノオ・タケミナカタ・タケミカヅチ・フツヌシら末裔に援軍要請せざる得なかったようだ。東国神は鹿に乗っており、大和国春日大社鹿伝承はこれらと東国戦士たちを指していると思われる。

51代神皇は伊勢口から、四皇子の日高佐野王を皇太子として久真野口(熊野口)から反撃。東国軍は東海口などから日栄山(比叡山)方面へ、これが17年間の神武東征『闇黒の世』の幕開けとなる。

 

〜宮下文書ウガヤ51代弥真都男王尊皇子〜

  • 皇太子 海津彦五瀬王命(戦死)
  • 二皇子 稲飯王命           (戦死)
  • 三皇子 三毛野入野王命(戦死)
  • 四皇子 日高佐野王命(のちの神武天皇)
  • 五皇子 阿田美椎津彦王命
  • 六皇子 高倉日本王命(八咫烏伝承?)
  • 七皇子 軽身大久保王命

 

※ホツマツタヱ版ネ州におけるシラヒト・コクミ事件、中国地方の白兎(はくと)伝承もこの白木人と関係がありそうだ。因幡の白兎では、ワニ(安曇族和邇氏?)を騙して海を渡ってきた伝承も合点がゆく。



皇太子は行宮『日高の宮』(湯野崎水門?日高郡御崎神社付近か?)を拠点とする。高座日多命・稲飯命・三毛野入野王命に、牟婁の鬼山付近に終結している長髄彦賊軍討伐を命じた。『白木の賊徒を塵にせよ、もし遁走させれば天地神明ともに許さぬ罪となろう』と皇兄らに檄を飛ばした。

稲飯命と三毛野入野命の兄弟は、曽根山から三木浦・錦浦に逃げ込んだ白木軍船50隻と援護船500余りを追う。皇兄に先陣を願い出たのが忌部若道命。あらかじめ海兵隊持参で参戦してきたようで、宮下文書には『忌部氏』と呼称されていた。

しかし皇兄らはこの時点では許可しなかったようだ。

翌早朝三木浦から錦浦を眺めたところ、白木軍は撤退して跡形もなかった。漁師に尋ねると前日のうちに消えたという。皇太子の詔から察するに…稲飯命らはどうしても逃がすわけにはいかなかった。そこには神武に対する皇兄のプライドもあったのかもしれない。

焦った稲飯命は『皇祖は天つ神、母は海神である私が、どうして賊軍に海路を譲ることができようか?』と、龍船に乗って疾電のごとく船を走らせ白木軍に追いついた。稲飯命は大剣を振りかざして、高天原の神祖神宗の天つ大御神に祈願する。『神あらば、速やかに暴風を起こし、数多くの賊船を覆してください…』と大剣を大海に投げ入れた。

倣って弟・三毛野入野命も天神地祇に祈り大剣を大海に投げ入れた。そして血気盛んな忌部若道命をはじめとする強兵2000人が吶喊!と大声を張り上げ鋭く戦った。

そのとき南西から大風が巻き起こった。さらに北西から暴風がおこり皇軍と賊軍とともに津久島に吹き付けられた。そこに南東の未曾有の大暴風が叩きつけ、結果として皇軍も賊軍も強兵『2500神皆』が水底に沈んだ。



※この忌部氏の出自は不明。ただ神武東征後の大嘗會にて、思兼堅石彦(オモイカネカタイワヒコ)命らとともに、中臣忌部八重垣命が掌ったと記載あり。宮下文書における中臣とは、フトダマ祖家系かアメノコヤネ武部系の2系に限定されるハズである。おそらくこの場合の忌部氏はフトダマ祖家系ではないか?と思われる。

 

※※因みに九鬼文書に関わった熊野本宮大社の八庄司一派?九鬼氏の本貫地がこの周辺であった。ここにもスサノオと熊野信仰がシンクロしており、彼らはなぜか古代出雲王朝の正統性を主張している。




 

 

 

 

 

 

宮下文書『錦浦』比定地、西伊豆を彷彿とさせる美しい港。

 

激戦比定地がレイラインに。



宮下文書三輪本現代訳p116、タイトルは牟婁の鬼山と記されている。牟婁(むろ)とは紀伊半島南部の総称で熊野灘を指すことが多い。前記事の朝貴神社・潮御崎神社もこの牟婁郡域に含まれる。

鬼山は不明であるが鬼ヶ城?または九鬼町八鬼山か?。曽根山(大曽根山?)から三木浦(三木浦漁港?)が舞台だと見られる。いずれも熊野灘リアス海岸として知られる景勝地だ。

錦浦(にしきうら)は二木島(にぎしま)と見てよいだろう。宮下文書では錦村戸長・今登志麻が白木軍に組みして反抗してきたとされている。日本書紀では熊野の荒坂津で神武天皇が丹敷戸畔(にしきべ)を討伐した故事による。かつては二鬼島という表記もあった。ただ一般的には錦浦比定地は、前記事紹介の浜の宮王子跡(神武天皇頓宮跡)に比定されてしまっているので注意。

今回これがなんと、室古神社→浜王子→浜の宮王子跡→潮御崎神社へのレイラインとなっていることに気づいた。

 

 

レレレ…レイラインになっている!(´(ェ)`)

 

 



 

 

 

 

〜稲飯命レイライン〜

  • 潮御崎神社
  • 志津の窟(潮御崎神社旧跡)
  • 雷公神社
  • 橋杭岩・蛭子大明神
  • 補陀洛山寺
  • 熊野三所大神社(浜の宮王子跡)
  • 浜王子(王子ヶ浜)
  • 室古神社(稲飯命)
  • 伊勢外宮
  • 別宮月夜見宮
  • 伊賀八幡宮
  • 大樹寺(徳川松平菩提寺)
  • 恵那山(ホツマ版アマテルの胞衣を祀る)
  • 守屋山(西峰)
  • 守屋神社奥宮(物部守屋末裔伝承)
  • 諏訪大社上社本宮
  • 白樺湖・女神湖
  • 浅間山
  • 立石寺(山寺、円仁慈覚開山)
  • 薬萊神社(坂上田村麿伝承)
  • 遠野倭文神社(アマテラス・下照姫・瀬織津姫、ホツマツタヱ版下照姫はヒルコのこと)
  • 明神崎・加茂神社

 

※スクナビコナ志津の窟比定地として、島根県大田市静間町魚津『静之窟』がある。



 

 

 

〜三毛入野命レイライン〜

  • 補陀洛山寺
  • 熊野三所大神社
  • 浜の宮王子跡
  • 王子ヶ浜
  • 阿古師神社(三毛入野命)伊勢内宮
  • 二見浦公園




 

〜紀伊筑紫神風レイライン?〜

  • 田島神社(名神大社、宗像大社元宮説、ニニギ外寇の戦場、1.4kmズレ)
  • 能古山・白髭神社
  • 筑前一宮筥崎宮(元寇激戦地)
  • 風治八幡宮
  • 網敷天満宮
  • 高忍日賣神社(式内社、1.4kmズレ)
  • 惣河内神社(八王子神)
  • 石鎚神社中宮(役行者開山)
  • 劔山本宮・古劔神社
  • 剣山
  • 御崎神社(日高郡美浜町)
  • 玉置山・玉置神社
  • 大馬神社(1kmズレ)
  • 室古神社(稲飯命)
  • 阿古師神社(三毛入野命)

 



◯『室古神社』(三重県熊野市二木島町)

〜御祭神〜

  • 稲飯命
  • 底筒男命
  • 稲倉魂命

 

由緒書によると、御祭神は豊玉彦命・熊野大神・稲飯命の三柱説があるという。

神武天皇東征中に暴風雨にあって船団は漂流し。皇兄の稲飯命と三毛入野命は入水した。後に地元の村民が奉葬した。稲飯命の御陵(墓)を尊崇して産土神として祀った。






◯『阿古師神社』(三重県熊野市甫母町)

~御祭神~

  • 三毛入野命
  • 天照皇大神
  • 大山祇命
  • 蛭子命
  • 倉稲魂命

 

室古神社対岸の三毛入野命の御陵を尊崇して産土神として祀ったのが阿古師神社。

由緒書によると、御祭神は豊玉姫命・伊勢大神・三毛入野命の三柱説があり。昔はこの錦浦を挟んで郡域が、熊野牟婁と伊勢英虞(あご)に分かれていたようで、それぞれの地元民が祭祀していた。毎年11月3日にはそれぞれの名代として2隻の舟40人が早漕ぎ競争をする。







◯『浜王子』(和歌山県新宮市熊野地)

〜御祭神〜

  • 稲飯命
  • 三毛入野命

境内由緒書によると熊野九十九王子のひとつとされる。古来から海神を祀っており、その怒りを鎮めるためにこの二王子が海中に投身した。だとすると…ヤマトタケル東征における三浦半島沖淡水門のオトタチバナヒメ入水事件と動機が一致する。

1322年(元亨2年)に武蔵国豊島郡領主・豊島右近太夫景村に王子権現として勧請されて『王子神社』となる。これが現代の東京都北区王子の由来で、隣の王子稲荷神社にはワクムスビが祭られる。このあたりはまた別記事で纏める。

浜王子の方は1879年(明治12年)、和歌山県新宮市阿須賀の古社『阿須賀王子』に合祀された。周辺には徐福上陸地伝承があり、日本書紀における熊野神邑に比定されるという。





もともと海神信仰であった『浜王子』、現在阿須賀神社に合祀されている。

 



徐福伝承の地、阿須賀王子旧跡『阿須賀神社』。






 

 

 

 

 

あらためて記紀の不可解さが露呈した。

 

今回あらためて通説の不可解さが露呈した。さらにホツマ+記紀が富士古文書(宮下文書)を元ネタとしている疑惑が浮上してくる。

記紀版稲飯命は、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と海神の娘の玉依姫との間に生まれた神武天皇の皇兄。表記として稲飯命・彦稲飯命・稲氷命がある。

日本書紀曰く、神武東征中に熊野に進んで暴風に遭い、『我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか?』と言って剣を抜いて海に入水し、鋤持神(さいもちのかみ)となったとされる。

古事記では、母方の海神の国(妣国)である海へ入り坐したとだけある。

ホツマツタヱでは神武東征に随伴しイワタテの沖で暴風雨に遭う『我が祖天の神よ、我が母ワダカミよ、陸でも海でも我らを苦しめてどうしようと言うのか?、せめて荒波だけでも鎮め給え』と悲壮感に身を任せ、剣を振りかざしたまま入水自殺したという。彼の犠牲のおかげで東征が達成されたため、戦後にサヒモチの海神として祀られたとある。やはりこの地には古来から謎の海神信仰があったことを匂わせている。

 

※また新撰姓氏録ではなんと…宮下文書における敵側であった、新羅王の祖と記されている。これは当人に対する侮辱なんじゃないのかな…と。

 

(´(ェ)`)





一方で記紀版三毛入野命は、稲飯命同様に彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と海神の娘の玉依姫との間に生まれた神武天皇の皇兄。三毛入野命・三毛野命・稚三毛野命・御毛沼命とも表記される。

日本書紀によると、神武東征中に熊野へ進軍するが暴風に遭う『母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか?』と言って、波頭を踏んで常世に行ったとされる。

古事記では、波頭を踏んで常世の国に渡ったとだけ記されている。

ホツマツタヱでは、タマヨリ姫が白羽の矢によって生んだ子。初め出雲の御子と呼ばれタマヨリ姫と共に宮内に召されウガヤの養子となる。このあたりは釈日本紀や山城風土記の賀茂別雷命伝承に酷似している。因みにホツマ版別雷命はニニキネ(ニニギ)のこと。神武東征に随伴し、イワタテ(天磐盾=神倉神社ゴトビキ岩)沖で遭遇した暴風雨にて死亡。

ここまでそれぞれセリフが若干違うが、基本的には宮下文書記述に準じているのがわかると思う。

 

二柱兄弟は神武皇兄なわけで、後世末裔が皇位継承主張をしてくるのを懸念した理由もありそうだ。フトダマ忌部氏の出自が曖昧にされたのも、645年乙巳の変などで祖家勢力(蘇我大伴の同祖)が失脚したのが大きいだろう。いずれにせよ彼らの犠牲なくして日本国はなかった可能性があるわけだが…、政治的にはこの鬼神の如き英霊たち、この武勇伝を後世に残すわけにはいかなかったようだ。




 

 

 

 

 

 

 

 

獅子巌から鬼ヶ城方面を望む。



 

なぜ熊野にヤタガラス伝承が残るのか?

 

 

宮下文書版ヤタガラスとは富士朝の神託『八咫烏を皇軍の指導者とさせる』による。

日本書紀版神武天皇が登った天磐盾が神倉神社『ゴトビキ岩』に比定されており、ここの御祭神・高倉下命がヤタガラス伝承と深い関係が指摘されている。



◯『神倉神社』(和歌山県新宮市神倉)

〜御祭神〜

  • 天照大神
  • 高倉下命




宮下文書には高倉下命は登場しない。

前記事から述べているように、六皇子・高倉日本命は東征中に神武天皇の勅使として富士朝へ渡り、富士朝から神皇の宣旨を奉じて伝えた人物。また東国援軍を募り活躍した人物。宮下文書における熊野が神武東征の主戦場だったわけで、神武天皇がヤタガラスの御神託を賜ったことを暗に示しているのだろう。

 

これが高座日多命(媛蹈鞴五十鈴媛の父)と混同されている節がある。宮下文書三輪本現代訳には高座日本と記されているが、神武の皇弟となっているので原本?の誤植だと思われる。ほぼ同時期に富士朝へ神武勅使として渡り、フツノミタマを賜り、ヤタガラスの神託を持ち帰った人物。混同されてもおかしくはないであろう。

因みにホツマツタヱ29文ではこの高倉下命が富士山へ行かず、霊夢でタケミカヅチから布都の神剣を授かり、それを神武天皇に『奨めた』という内容に変更されている。ここから見ても高倉下命≒高座日多命とも言えそうだ。



~宮下文書表記:第二の皇弟高座日本皇子とは?~

▲高座日多命…神武天皇叔父で義父?

▲高倉日本命…神武天皇第二の皇弟(第六皇子)?

 

東征戦後論功行賞、大和(山表)・山背・川地・泉水・摂津の五道は御家内と称し神皇御領地とされた。そのなかで前述の高倉日本皇子(高倉王命)を大和・山背・川地三国の国造とし、猛田(武田)の大県主を賜る。とくに山背国貴船大神はウガヤフキアエズ皇族や海軍将校の神霊を祀る戦没慰霊地であった。

この猛田比定地は、京都市伏見区竹田の式内社『真幡寸神社旧跡』付近?とみている。かつてこの付近には河川港伏見港があり宇治川水運の要衝とされ、日本紀略によると『鴨雷神之別也』とあり。山背国賀茂別雷神社との関係が指摘される。神社はかつて藤森神社社地にもあり、そこから城南宮へと転々としていたが徳川家康から三葉葵神紋の使用を許された。諸説あるが徳川将軍家出自には賀茂明神神官末裔説があり、賀茂氏族との関係が指摘される。もしこの地が山背国賀茂氏のルーツであるなら、徳川幕府が重要視するのも合点がゆく。

個人的には賀茂氏祖・賀茂建角身命と関係があるのではないか?とみている。宮下文書には賀茂建角身命は登場しないが、ホツマツタヱにおけるタケスミに比定。イソヨリヒメ(ミホツヒメ孫)を娶っているので、この地で語られる出雲要素はクニトコタチ丹波出雲(出雲大神宮)のことだろう。ここでも中国地方出雲と混同されている節があるので注意。

つまりは山城国祭祀とくに賀茂神タマヨリヒメ祭祀は、旧ウガヤ勢影響力を示している。





とは言えこの高倉下命は、他の地域祭祀にも複雑に絡んでおり、一筋縄では説明しきれない部分もある。

 

例えば、神武東征以前の大和国におけるホアカリ尾張勢力開拓史をすり替えるため、尾張連祖とされている可能性もあるだろう。熱田神宮境外摂社『高座結御子神社』にも祀られているのはこのためだと思われ、神倉神社→熱田神宮→信州出雲戸隠と同ライン上800mズレで結ばれている。通説熊野神はスサノオとされており、ホツマ版ヤマトタケルはスサノオ転生を自称しているわけで、このレイラインの意味合いも深みを増していく(前記事参照)。

ホツマツタヱではこのあたりからホアカリ・ニギハヤヒ伝承、さらに祖家ウマシマジ伝承と出雲伝承が混同されていると思われる。

 

さらにはホツマツタヱでは弥彦神=高倉下命となっているが、これは宮下文書版神武東征中に行われた丹生川上にて行われた、大和国の天香山埴土の神事に由来していると思われる。

宮下文書における越後一宮弥彦神社=コトシロヌシ『伊彌の宮』、御祭神の天香護山命とはコトシロヌシ二男。現在の天香久山『畝尾都多本神社』に泣沢女神(宮下文書版コトシロヌシ娘、オオヤマツミ妃、カモサワヒメ諡別雷命)が祀られており、天香久山にも賀茂氏との接点がありそうだ。

 

少なくとも宮下文書から言えることは…、これら高倉下命が同一であるハズがない。

つまり高倉下命という存在は、神武東征以前に大和にもともといた旧ホノアカリ尾張勢力と、九州からきた神武兄弟複数神の影響力を包括した、附会的存在なのではないか?と…。結局ウガヤフキアエズ朝を欠史にした余波から生まれた御神霊であり、誕生したのは10代崇神〜12代景行時代編纂ホツマツタヱ成立前後と見られる。



(´(ェ)`)






 

 

 

 

名残惜しい錦浦、さらば神風王子。

 

 

なぜ神風武勇伝は歪んだ?。

 

結論から言えば、ウガヤフキアエズ全51代をまるまる欠史にしていることの余波だと言える。史実は10代崇神〜12代景行時代編纂ホツマツタヱ成立前後に改竄されたと見られる。

そもそもウガヤフキアエズ朝が九州高千穂峰を神都とし全51代も続いた理由は、大陸監視の役割が大きかった。富士朝が言向和平に根ざした調和を目指した時代とするなら、続くウガヤ朝時代は国防のアイデンティティと言っても過言ではない。

 

・ニニギ朝に大陸勢がなだれ込む。

・ヒコホホデミ朝タマノオヤ大宮司はその戦後処理に苦しんだようだ。

・ウガヤフキアエズ朝24代、外寇船100隻が襲来したが神風により沈没した。

・ウガヤフキアエズ朝36代、100隻あまり襲来して、3年強かけて撃退した。

・ウガヤフキアエズ朝49代、本島南の地に白木人による大規模蜂起があり、平定に17年かかった。

その他にも小さな衝突はあったと思われる。

 

しかしこのウガヤフキアエズ時代約2000〜3000年間に、渡来人帰化人の侵食がかなり進行したとみられ各地小競り合いが頻発した。これが神武東征が17年近くも手こずっていた理由なのだ。移民たちは存亡をかけて襲い掛かってくるわけで、言向和平の共存は難しい状況にあった。

戦後神武天皇が拠点を九州から『大和』へ遷した理由は、本土中心部からあまねく全国の移民たちを監視する時代へと移行したことを意味する。



これが…ホツマ記紀ではどうか?。

ご存知のようにホツマ記紀ではニニギ→ヒコホホデミ→ウガヤフキアエズ→神武天皇であり、おおよそ2000〜3000年間ほどのウガヤ朝時代がまるまるオミットされている。つまり渡来人が激増した『戦いの歴史』を説明しきれていない。

そもそもホツマ版ニニギ(ニニキネ)は灌漑用水を広めた天才発明家、農業の先駆者で開拓神の性質が強い。宮下文書版ニニギはコノハナサクヤヒメを自殺させてしまい、善と悪に打ち拉されて再起不能となる。戦士としてのアイデンティティをこれほどまでにねじ曲げられている御神霊はそういない…。

さらにすぐ曾孫が神武天皇となり、神武東征までに西日本が渡来人に侵食されて危機に瀕していた経緯までも、まるまる隠さねばならなかった。歴史改竄の神話作りに際して、天孫族ニニギが高天原から降臨してきた矢先に、渡来人勢力が爆発的に増加している状況は都合の悪いのだろう。天孫ニニギを侵略者として語るわけにもいかなかった。

現にホツマツタヱ版神武東征は、皇別神ニギハヤヒとナガスネヒコが結託。秘密の神宝『春日神庫の代嗣文』の扱いをめぐり東国と対立。きっかけはあくまで大和民族同士の内乱として描かれている。

移民流入の歴史は別途、信州出雲〜中国地方出雲を舞台とした根の国背乗り事件『シラヒト・コクミ事件』として、神武東征から切り離されて集約されている感がある。

 

通説、日本人にはアニミズムと仏教を受容する和の精神が確かにあった。ただ渡来人と仲良くし同化していったというのはごく一側面でしかなく、海外勢力を全力で阻止してきた血塗られた歴史は確実にあったのだ。それが現代日本人に全く伝わっていないようだ。さらには坂上田村麿のように、富士朝関連氏族を渡来人帰化人と語っている節がある。縄文神代のオリジナリティが海外文化により埋没させられてきたことも知ってほしいと思う。

(´(ェ)`)





 

 

 

 






〈おまけ〉レイラインってなんだ?




スピリチュアル的に『時間』はなく、パラレルやタイムラインが沢山あるため、一つの真相を追求するのは無用とも云われる。しかし各文献に様々な稲飯命と三毛野入野命のパラレルが並列しているように、重要なのは歴史の因果関係を探る事にある気がする。

神道とは祖霊信仰。つまり祖先がどういう気持ちで、なにと戦っていたかを知る必要がある。なぜなら…私たち末裔にはその遺伝子情報が此処彼処に刻まれているからだ。ウガヤフキアエズの歴代神皇の立場からみれば、末裔たちに戦争の理由を矛盾なく伝えてほしいと思うだろう。その因果を辿ってはじめて戦いのカルマは統合される。だから戦争の善・悪はひとまず置いておいて、一つ一つの遺伝子を確認しつつ癒していく作業となる。

歴史にはいろいろな考えは必要だけど、結局この因果の辻褄を合わせることが私たちにとって一番大切だと思っている。

 

今回もフラフラ神社巡りをしていたら、それらがすべて同一線上を辿っていて驚いた。因みにクニサツチ本土上陸ルートやヤマトタケル東征ルートにも、このようなレイライン現象がおこっている。例えば熱田神宮→酒折宮→新治神社はレイラインで結ばれており、酒折宮には新治への日本最古の連歌が残されている。最近思うに…レイラインとはこんな因果応報の流れなのかな?と。




声『対元寇氏族の末裔よ…お前に神風の謎が解けるのか???』

熊『…』

声『それでもいい…』

声『その因果で思ったことを、お前の言葉で伝えてくれ…。それがお前のラインとなる』

 



そういえば私は武藤少弐氏の末裔(推定)だった…。なんの因果かと思ってしまう。奇しくも三本目のレイラインは阿古師神社と室古神社を結ぶレイラインは、ニニギ外寇親征の役と鎌倉時代2度の元寇の激戦地筑紫へ到達する。熊オッサンにとっても他人事とは思えない。

阿古師神社・阿須賀神社・浜王子・熊野三所大神社・潮御崎神社…。行けたら行ってみようかな?位のノリだったのだが、今考えると全神社呼ばれていた可能性あり(苦笑)。唯一心残りなのは室古神社に行く時間がなかったことかな…。

浜王子さまに『富士山と戦争の歴史をみんなに伝えます』と約束してきた。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

 ↓

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※地図はクラフトマップ使用。

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<神社めぐり>本州最南端出雲『朝貴神社』『潮御﨑神社』と、出雲と熊野すり替え解明レイライン?

レイライン上の神倉神社『ゴトビキ岩』
花窟神社と陰陽の関係にある。



 

 

2025,5,4

くま三山、くまの血騒ぐ、くま鼓動。

く〜まの〜(´(ェ)`)

xでも述べていますがGWは熊野三山を参拝しております。まず熊野若一王子さまにご挨拶したかったのと、タマノオヤ家族神の痕跡をこの目で見たかったわけです。宮下文書記述によると最低でも5000〜6000年前の創建、存在だけでも圧巻のレベル。ただ紀伊半島はとにかく広大、電車とバスを乗り継いであとはほとんど徒歩の貧乏旅行。玉置神社はじめ時間の都合上あきらめた神社も多いです。

そんな中にあって本州最南端『出雲』を目指した理由は、信州出雲~熱田神宮~速玉大社へのレイラインに導かれての事。さらについ先程もう一本出雲大社からのレイラインを見つけてしまった。位山レイライン記事より優先させていただきました。

玉置神社に呼ばれなかったが、紀州出雲には呼ばれたみたい。

(´(ェ)`)



~目次~

男神アマテルに内在するマゴコロタケル投影?、熊野最重要神『若宮』と忌部の関係。 - セキホツ熊の謎を追え!





 

熊野と出雲、タマノオヤとスサノオの関係

 

はじめての方もいらっしゃるのでおさらいすると。

そもそも出雲とは。

富士朝の警察・監獄・裁判所を併せた罪人の監視機関。阿祖北(富士山からみて北)の山陰、富士山へ悪雲が吹き出してくる方角であることから出雲国と呼んだ。阿祖山太神宮初代大宮司オオクニヌシを元帥、タヂカラオを副師として、罪人スサノオが収監された。加茂喜三氏はじめ多くの宮下文書研究者がこれを戸隠神社周辺だと認識している。

前記事で、スサノオの一族郎党が2000神いたと書いてしまった…。これはおそらくオオクニヌシとタヂカラオたちの一族郎党2000神が、罪人スサノオを警護して戸隠へ追放させたとの意味。

間違えましたゴメンナサイm(_ _)m。




そもそも熊野とは。

宮下文書熊野信仰はアマテラス義孫とスサノオ孫であり、アメノオシホミミ八王子神、ニニギ弟であるタマノオヤに由来している。事質的には富士朝二代目大宮司タマノオヤ家族神らが窓口となり、富士山祖霊信仰を祀っていると推測。

神代ヒコホホデミ西征の折に、西国を久眞(くま)なく治めた。戦後この地を拠点としたタマノオヤ御子ウサミが、久眞野山の麓に宮を造営したという。具体的な所在地は不明であるが、当初から三山三社が揃っていたわけではなさそうだ。この宮には高天原からイザナギ・イザナミ・アマテラス・アメノオシホミミを勧請し、父神タマノオヤを合祀した。ウサミ御子クマノクスヒコが継承した。

 

〜宮下文書研究家鈴木貞一、熊野三神の見解〜

▲家津美御子大神=天太眞祖命

▲熊野速玉雄命    =宇佐見命

▲熊野夫須美命    =久眞野久住比古命

 






一方、タマノオヤ最大拠点『穴門の宮(周防一宮玉祖神社)』を任された推定御子?が宇都志日金命(安曇族祖?)。さらに神武時代の53代孫が、穴門摂津県令の日鷲気留木彦命(忌部重要神・天日鷲命?)とみられる。また海人安曇族の影響で日本海側にも出雲一宮熊野大社をはじめとするタマノオヤ信仰が拡散されていたようだ。根拠として宮下文書版タマノオヤ妃イワナガヒメの前世が、ホツマツタヱでは根の国へ渡ったヤマタノオロチだったと語られている。

神武天皇時代、中国地方出雲は白木人(新羅人?)ら渡来系が終結しており、ウガヤフキアエズ朝旧皇族・眞佐勝彦命と結託して蜂起した。これが17年に渡り本州大乱として戦地が拡大、『闇黒の世』と称された。東征では北越惣国元帥であるスサノオ55孫・出雲大神主命が大活躍をし、戦後の論功行賞にて出雲・尾木国造を賜る。これは暗に東征の渡来系戦犯監視をスサノオ勢力が新しい出雲にて任された形となる。

 




 

 

 

 

 

 

熊野那智大社境内『那智の滝』
後述するが入場料を払うと小さいお札がもらえた。

 

 

出雲と熊野が接近できた背景?。

まず中国地方出雲とは…。

神代からのタマノオヤ熊野信仰の土地に、神武東征以降からスサノオ出雲信仰が入り込んできたカタチとなる。同時にオオクニヌシが中国地方に直接関係ないことも明白である。これが後世にホツマツタヱ神道大系をきっかけとして、タマノオヤ信仰とスサノオ信仰が長い年月をかけてすり替わったようだ。そもそもタマノオヤ外祖父がスサノオなので、信仰が重なっても違和感がなかったのかもしれないが…。

 

ただ熊野で出雲神スサノオ信仰が認識された背景は、実に政治的事情もあったと思われる。熊野創建当時神代の富士朝阿祖山太神宮2代目大宮司がタマノオヤだったのに対して、ホツマツタヱが成立した12代景行天皇時代までにはスサノオ74代孫福地記太夫命が大宮司を継承していたことが挙げられる。西国側の一方的な歴史改竄にあたり、富士朝祭祀陣営を黙らせる口実ともなりそうだ。熊野神=スサノオを奉ることで、スサノオ系富士朝大宮司側は文句が言えなくなってしまうのだ。同時に西国天皇勢力の富士朝信仰脱却をも意味しており、福地記太夫命には東国吾嬬惣国国造を任せる事で東西分治を促進させることに専念させた。

因みに…熊野信仰のシンボル八咫烏とは、神武東征の折に高座日多命が富士朝から『布都の神剣』と共に、『八咫烏を皇軍の指導者とさせる』という神託を賜ったことに起因する。カラスはクニサツチが愛した霊鳥、熊野はあくまで富士朝ベースの祖霊信仰(とくに皇祖男系)である。とくに熊野の地は神武東征の激戦区となった経緯があり、東国と神武天皇軍の功績なくしては語れないであろう。






 

 

 

 

和歌山県東牟婁郡串本町出雲『朝貴神社』



 

本州最南端の紀州出雲に2本の出雲レイライン合流。

 

で…、今回ご紹介するのが紀伊半島最南端『出雲』地区にある『朝貴神社』。当ブログでも2回以上ご紹介しているハズなのだが…(記憶が曖昧)。

では何故この地を、『出雲』というのだろう…。

地名の由来は諸説あり。出雲大社神官吉田氏が紀伊国へ移住して、朝貴神社を創建したことに由来するという。またスサノオを祀る出雲族が移住した説もある。いずれにせよ通説出雲神と熊野神の接点があるわけで、これが出雲神と熊野神スサノオに関係しているのではないか?との論調が強い。

しかし宮下文書から読み解くに、そもそもこの出雲族が何処の出雲から来ているのか?にによるだろうが…。




◯『朝貴神社』(東牟婁郡串本町出雲58番地)

〜主祭神〜

  • 大己貴命

 

〜配祀神〜

  • 天照大神
  • 火々出見尊
  • 火産霊神
  • 蛭子命
  • 熊野夫須美神
  • 速玉男神
  • 家津御子神

 

〜境内〜

  • 若宮神社

※岬部の神社に対面して『恵比寿神社』があり。

※※紀伊続風土記によると、伊勢大神宮摂社である礒辺の神(伊勢部?具体的には不明)を祀っていたとのこと。

 

 

ではこの紀州出雲、信州出雲と中国地方出雲とどのような関係なのであろうか?。

結論を言うと、戸隠=オリジナル出雲『天獄』である根拠が浮き彫りとなるレイラインである。結局これはオリジナル出雲のすり替え、ホツマツタヱにおけるスサノオと九頭竜モチコの関係を示唆しているのではないかと…。そして部分的ではあるが熊野神イザナミの聖地がチラついてくることにも注目。

 

 





~①戸隠紀州出雲レイライン~

  • 戸隠山(信州出雲)
  • 瀬戸川神社(本州重心点から遷座)
  • 本州重心点(氷川神社ラインクロスポイント)
  • 若一王子神社(1.5kmズレ)
  • 有明山神社(タヂカラオ・オモイカネ)
  • 乗鞍岳大日岳(2.4kmズレ)
  • 御嶽山剣ヶ峰(3.4kmズレ)
  • 内々神社(式内社1.2kmズレ)
  • 和爾良神社(式内社、和仁氏祖)
  • 熱田神宮(ヤマタノオロチの尾=草薙の剣)
  • 松坂神社
  • 熊オッサンが伊勢参りに泊まったホテル(ドンピシャ)
  • 皇大神宮別宮瀧原宮(2.2kmズレ)
  • 頭之宮四方神社
  • 尾鷲神社
  • 大馬神社里宮
  • 花窟神社(ほと穴は陰石、1.4kmズレ)
  • 産田神社
  • 熊野速玉大社
  • 神倉神社(ゴトビキ岩は陽石、花窟と陰陽関係)
  • 熊野三所大神社(1kmズレ)
  • 浜の宮王子跡(1kmズレ)
  • 補陀落山寺(1kmズレ)
  • 朝貴神社(紀州出雲)

※戸隠山と朝貴神社を軸とした、本州重心点から最南端へのライン




~②出雲紀州出雲レイライン~

  • 日御碕
  • 日御碕神社(500mズレ)
  • 出雲大社
  • 塩治神社
  • 出雲井神社(雲南市)
  • 伊賀武神社(摂社八重垣神社)
  • 八重垣神社跡(奥出雲町、ヤマタノオロチ伝承)
  • 木野山神社奥宮
  • 備前一宮吉備津彦神社
  • 高島神社(岡山県南区)
  • 神武天皇聖蹟高嶋宮
  • 鳴門渦潮(4kmズレ)
  • 御崎神社(日高郡美浜町、阿古師〜室古レイラインクロスポイント)
  • 塩屋王子神社
  • 朝貴神社(紀州出雲)

※日御碕から鳴門海峡、朝貴神社を軸としたライン。



 

~③戸隠出雲レイライン~

  • 戸隠神社奥宮
  • 雄山神社(前立社壇)
  • 白山比咩神社
  • 遣水観音山霊水堂
  • 沖之御前
  • 美保神社(1.3kmズレ)
  • 宇美神社
  • 出雲大社

※戸隠奥宮と出雲大社を軸としたライン。根の国から黄泉国へのレイライン?。





上記の①戸隠からのレイラインを説明すると。

・戸隠付近はオリジナル出雲の所在地。クニトコタチ男系マゴコロタケルが、阿波国から安房国へ移住し西国勢力が衰退すると、スサノオ娘ミホツヒメが丹波にて西国を統治し、生涯独身で政治・祭祀に専念したようだ。死後は出雲大神として祀られ『出雲』が移り、丹波一宮出雲大神宮が誕生した思われる。あくまで個人的に思うのは、九鬼文書や大本教を含むこの丹波地域のいう『出雲』とは、中国地方出雲ではなく丹波クニトコタチ祭祀を暗示しているのではないのかと…。

・本州重心点(本州のへそ)は、当ブログでは何度も紹介している氷川三社からのレイラインのクロスポイントで、かつては瀬戸川神社が存在していた。坂上田村麿の伝承を残している。

・熱田神宮は日本武尊と草薙の剣を祀る。ホツマツタヱ版ヤマトタケルは東征の際にこの草薙の剣を携え、自らをスサノオの転生であると称し氷川神社を創建した。前述スサノオ74代孫福地記太夫命妻が、尾羽張中島松子島の源太夫穂明男命の姉・中島根媛命。富士朝再興した源頼朝の母・由来御前も熱田神宮宮司家に関係しており、古来から富士朝との関係が非常に強い。

・花窟神社の『ほと穴』、速玉大社神倉神社の『ゴトビキ岩(表紙写真)』は陰陽の関係にあると云われる。

 

 

次に②日御碕からのレイラインを説明すると。

・日御碕神社は伊勢神宮と陰陽の対極にあり日本の『夜』を守護する神社。

・出雲大社は1871年(明治4年)まで出雲二宮杵築大社と呼ばれていた。杵築とは木と竹のことで、宮下文書における阿祖北の山陰、出雲谷に木と竹で作られた囚人監督の宮のことと思われる。

・八重垣神社(奥出雲)には八重垣神社(松江)元宮説あり。

吉備津彦神社は備前国一宮。宮下文書における吉備氏(平群氏同族)は右臣武部(藤原物部系統)となる。吉備武彦命はヤマトタケルの外祖父。12代景行天皇時代に吉備彦命は東征に従った副将の一人だが、10代崇神天皇時代の四道将軍としても記載されている。このように似たような人物が時代をまたがって存在しており、これが同一人物なのか?誤植なのか?は断言できない。

・個人的には、レイライン近くに日月神示にでてくる鳴門渦潮があることも気になるところ。

 

<緊急続報>埼玉県八潮市中央一丁目交差点陥没事故、上潮とレイラインの交差点か?。 - セキホツ熊の謎を追え!







 

スクナビコナ常世伝承のある潮岬『潮御崎神社』
土砂降りだった。






<おまけ>紀州出雲の常世とは?、紀伊安房松島レイライン。

 

熊野三山では基本的に快晴、なのに紀州出雲のある潮岬に近づくほどに雨が強まってきた。ただこの紀州出雲に行ってみたいという衝動を抑えられなかった。というのもこの①レイライン付近は今日に至るまで私が参拝してきた神社ばかりだったからだ。戸隠神社→瀬戸川神社→若一王子神社→熱田神宮→花窟神社→産田神社→速玉大社…。この先に何があるのか?実際この目で何があるのか見てみたいと…。いつか行かなくてはならないのであれば、今日雨でも行こうと…。ただひたすらに先を急いだ。

◯『潮御崎神社』(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬)

〜主祭神〜

  • 少彦名命

〜配祀神〜

  • 金山彦命
  • 高皇産霊神
  • 天照大神
  • 大国主命
  • 猿田彦命

※12代景行天皇時代、静之窟という場所に創建。

日本書紀神代記曰く、オオクニヌシとスクナビコナが協力して中津国を運営、その後スクナビコナが『熊野御崎に至りて常世国に渡った』という。全国粟島・淡島系信仰にも似たような伝承がある。

 

雨はどこか…宮下文書版紀伊半島東沖海戦を彷彿とさせる。神武東征の折、稲飯命と三毛入野命が、渡来人白木人をどうしても逃がすわけにはいかないと…水神に決戦祈願。最終的には船団ごと三木浦方面へながされて賊軍諸共に大海に没した。古事記ではこれを波頭を踏んで『常世の国』に渡ったとのみ記されている。私が対元寇氏族武藤少弐氏の末裔だからであろうか?、紀伊半島東沖で稲飯命と三毛入野命を嵐を巻き起こして海戦を呑み込んだこの水神こそに興味があった。ズバリこれは阿波から東国常世『安房』に渡った若一王子さまではないかと思っている…(妄想)。

※そういえば九鬼文書は、紀州熊野由来のアメノコヤネ末裔を称する九鬼家に纏わる古史古伝であるが…。九鬼家の拠点はこの三木浦北、①レイライン上の尾鷲神社付近である。

 

ところで常世とはなんであろうか?。ホツマツタヱにおける常世とは西国ヤマト政権の影響がなかなか及ばない管轄外のことであり、富士山関東圏ホツマ国や東北ヒタカミ国を指す場合が多い。奇しくも潮御崎神社の御祭神スクナビコナも似たような伝承を持っている。ただ宮下文書における伊勢地主神がなんで東国常世の『あわしま』なのだろうか?。

これは偶然か…(´(ェ)`)

 

△天上=高天原(富士山)

◇地上=葦原中国(中国地方出雲?)

▽地下=黄泉国・根の国(戸隠、熊野花窟?)

◯常世=海の果ての理想郷?

 

熊野や土佐といった太平洋側黒潮沿いには、補陀落渡海という苦行が多いという。語源はサンスクリット語『ポータラカ』、本場はインド南部の海沿いにあると云われ、これが日本に伝来し熊野那智山や日光山が擬せられた。行者が身動き取れない棺桶のような船に乗せられ、大海へ漕ぎ出し黒潮を彷徨う修行。観音菩薩の浄土『補陀落山』への往生を願い海へ入るが…、事実上自殺行為のようなものである。平安末期源平合戦に落ち延びた平維盛が、補陀落渡海に擬えて那智沖にて入水自殺をしたという伝承がある。熊野三山を参詣後に松の木に自らの名を記し、船を大海に漕ぎ出したという。興味深いことにお隣の紀伊勝浦港『紀の松島』の山成島にも彼の入水自殺説がある。

スタート地点は①レイライン近くに九十九王子の一つ『浜の宮王子』があったが宝永津波で流されて廃絶、廃仏毀釈後の現在でも地図上では『補陀洛山寺』と並んで『熊野三所大神社』がある。しかしその思いの果てが目指す先は…?。黒潮の流される方角であり、地図で言えば伊豆を超えて、房総半島の安房国あたりではないだろうかと…。

そう...『あわ』の国なのだ。

 

 

~紀伊安房松島レイライン~

  • 誕生寺(日蓮聖人生誕地)
  • 安房松島・厳島神社(円仁慈覚創建)
  • 安房総社・鶴谷八幡宮
  • 安房一宮・州崎神社御神石
  • 伊古奈比咩命(白浜神社、元三嶋伝承1.2kmズレ)
  • 紀の松島
  • 青島神社(日向国、古事記の鴨就宮)
  • 檍神社(神代創建説?、ヤソマガツヒほか)
  • 桜島(10kmズレ)

 

奇しくも那智勝浦と上総勝浦がシンクロする、そもそも勝浦の地名はクニトコタチ御孫マゴコロ夫妻を奉祀した阿波・安房忌部『勝占忌部』に起因するという。それはかつての九州ウガヤフキアエズ朝の航路にも関係していたのかなと(妄想)。

 

 

 

①レイライン上かつての浜の宮王子跡にある『熊野三所大神社』
左側が『補陀落山寺』



そして黒潮ともっとも近接しているのはこの潮岬のはずだ。

雨の中、なんとか潮御崎神社へたどり着いたが、コミュニティバスしか移動手段がなかった。とぼとぼ串本駅方面へ半島の半分以上歩くことになった。そこに地元の方が通りがかり、びしょびしょの小汚いオッサンを車に乗せてくれた。人の思いやりが涙が出るほど嬉しかった。

そのときポケットから午前中にいった那智大社『那智の滝』入り口でもらった小さなお札がでてきた。もしかしたらこれかなと…。そういえば朝一からJR那智駅前の補陀落山寺→浜の宮王子→熊野那智大社→紀の松島を巡礼したではないか!。

常世を探して先を急ぐオッサンが、行き急ぎすぎるのを止められたのかなと…。

 

く〜まの〜(´(ェ)`)



 

 

 

 

 

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『さんよりこより』に見る妹背論、瀬織津姫とマゴコロ夫妻は飛騨一宮『位山』を示す?。

 

 

子供たちの『さんよりこより』の声が聞こえる。





 

 

 

2025,4,13

『さんよりこより』というお祭りを知ったのは2018年ころだった。この頃はまだ宮下文書未読の時期で、ホツマツタヱを読みながら近県の瀬織津姫系神社を回っており、認識するのは必然の流れだったと思う。しかし熊オッサンの目に止まったのはむしろ例祭日。

なんと8月7日ではないか(苦笑)。

奇しくも熊オッサンの誕生日と同じである。多分…偶然なのかもしれないがシンクロニシティを感じる出来事の一つであった。

 

(´(ェ)`)




~目次~

 

 

九頭竜・ヒルコ・ワカサクラヒメは同一神ではないのか?、阿波✕安房あわわ神社レイライン - セキホツ熊の謎を追え!

宮下文書で妹背解明、飽波神社の瀬織津姫・ヒルコをそれぞれ夫神たちが見守っていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!




『さんよりこより』とは…。

 

信濃国伊那を流れる三峰川支流藤沢川には守屋神社や守屋山があり、物部守屋二男が西国から逃れ隠れ住んでいたという伝承がある。下流には天竜川をへて遠州へ注がれる。さんよりこよりを簡単に言えば、この三峰川の美篶(みすず)川手地区の天伯社と、富県桜井の天伯社を神輿で渡る七夕祭りである。

室町中期1427年(応永34年)、藤沢片倉(当地から守屋神社方面)に祀られていた天伯様が洪水によって富県桜井に流れ着き、その後再び美篶川手に流れついたという。1472年(文明4年)から例祭となり川手と桜井を神輿で結ぶようになったという。神輿の意味は、天伯様が神輿にのって対岸の妃神に逢うためのもの。つまり…単純に考えて瀬織津姫命の夫という位置づけとなる。

祭りでは、洪水を起こす鬼(疫病神)に扮した大人を地域の子供たちが七夕飾りでたたいて退散させる。掛け声『さんよりこより』は『さあ、寄ってこい』の意味で、鬼を退散させることで無病息災を願う。

※YouTubeで検索するとドキュメンタリーがでてきます。

(´(ェ)`)



◯『川手天伯社』(長野県伊那市美篶)

〜御祭神〜

  • 棚機姫之命

※村社

 

◯『片倉天伯社(桜井天伯社)』(長野県伊那市富県)

〜御祭神〜

  • 瀬織津姫命

※雑社



◯『榛原天白社』(長野県伊那市美篶)

〜御祭神〜

  • 天之御中主命
  • 軻遇突智命

※愛宕天伯勧請。

因みにカグツチは月桜田毘女命の兄神、宮下氏族に榛原氏がいるが…。

※三峰川沿いにはいくつか天伯社が点在しており、御祭神はそれぞれ異なる。天伯信仰は全国に散見されるものの、諸説あって謎が多い。



七夕祭は旧暦7月7日、新暦と旧暦の間となる中暦(月遅れ)8月7日に祭られる地域が多い。ただ長野県『長野県町村誌』によると、川手の祭祀日9月7日であり、桜井の祭祀日7月7日なので間をとって8月7日になった可能性もあるかもしれない。もともとは頻繁に氾濫する川の鎮魂目的であり、後世にそれを天の川に見立て七夕要素を取り入れていったとの指摘もある。由緒書によると不思議なことに毎年8月7日の三峰川はとても穏やかなのだという。棚機姫之命と瀬織津姫命にとっても大切なイベントであるには違いない。

そして…今回は妹背論の裏付けとなっているのではないかと…。つまり天伯様とはマゴコロタケルであり、天棚機姫神は松島毘女命、川を渡って瀬織津姫命とは月桜田毘女命を投影しているのではないだろうかと睨んだ…。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

天棚機姫神を祀る、長野県伊那市美篶『川手天伯社』



 



天棚機姫神とは?

 

天棚機姫神は、奇しくも807年(大同2年)忌部氏末裔官人が編纂した古語拾遺に登場する女神。天照大御神を天岩戸から誘い出すため神衣和衣を織ったとされる。天羽槌雄神とともに機織の神、倭文神として知られる。

天八千千比売命・天衣織女命・栲幡千千姫命と同一視される一方、天八千千比売命の母神であるという説もあり。倭姫命世記によると孫神が天八千千比売命という説もある。茨城県神社誌によると、泉神社御祭神の天速玉姫神(安房一宮などの天比理乃咩命)の母神ともされる。さらに各地に大麻や楮の織物をもたらしつつ、阿波皇祖神マゴコロ夫妻を奉祀していた阿波+安房忌部氏の影がチラついてくるわけだ。

また古事記における天服織女とも同一視される。スサノオがアマテラスがいる忌服屋に、天の斑馬を逆剥ぎにして投げ込んだ。そのときに天の服織女が驚いて梭を隠土を突いて死んだという。梭を隠土につく描写は、宮下文書において子宝に恵まれなかった松島毘女命を暗に示しているのではないかと…。

ホツマツタヱでも似たような描写があり、これが瀬織津姫ホノコ妹神・ワカザクラ姫ハナコとされる。スサノオ(スサノオ)に太斑馬を投げ込まれて圧死させられ、瀬織津姫命は妹の亡骸?を『活モノ』に祈って蘇生させたという意味深な記述を残している。

 

 

宗像大社の七夕伝説は、湍津姫神を祀る大島『中津宮』に由来する。ミカサフミ散逸文における瀬織津姫は、サクラタニ・滝つ背の女(タギツセノメ)とも呼ばれており、当ブログでは月桜田毘女命に比定できそうだ。中津宮には小さい川をはさんで『織女社』と『牽牛社』がある。御祭神はイザナギとイザナミとなる。近くには蛭子社と大歳社がある点も興味深い。蛭子命と歳神については後述。

福岡県宝満川の七夕伝承も興味深い。阿波〜安房〜英彦山へのライン上には『七夕神社』と『老松宮(稲吉老松神社)』がある。二社はそれぞれ対を成してレイラインで結ばれる。御祭神はマゴコロ夫妻の御子夫婦、アメノオシホミミとタクハタチヂヒメとされる。宮下文書におけるこの夫妻はニニギ・タマノオヤら八王子の子宝に恵まれるも、マゴコロ夫妻の後追いか?最後は謎の心中をしたようだ。おそらくは先代への敬意の表れで、七夕祭りは皇家にとっても意義深い想いが込められているハズだ。

また、山梨県韮崎市穂坂町柳平『本宮倭文神社』では天棚機姫神が七夕社として祀られており、七夕信仰の一部と見なされているようだ。

※因みに、七夕は一般的に中国漢時代編纂の『古詩十九首』に由来するとされるが、宮下文書における神代はその遥か昔である。







 

 

 

 

 

川手地区を、いざ出発

 

 

マゴコロタケル事件と憶測(まとめ)。

 

宮下文書日本創世期、クニトコタチとクニサツチが日本を分割して四季島統治をしていた。クニトコタチはトヨクムヌを生み、孫にあたるのが阿和武男命(諡マゴコロタケル)。トヨクムヌは早世して残されたマゴコロタケルは西国阿波→東国安房へ拠点を移した。この系統は子宝に恵まれず、富士朝太神宮に祈願し苦難の末に末に一子を儲けた。待望の御子を残して夫妻は謎の同日崩御した。

遺児となったアメノオシホミミは、アマテラスに引き取られ未婚養子となり、従姉妹の青木比女命に養育された。マゴコロタケルの母神・白瀧比女尊が尾茂太留尊と再婚し、その御子が青木比女命。マゴコロタケルの義妹にあたり、コトシロヌシ妹でアメノウズメの姉にあたる。つまり妹背本来の意味が、『皇家総出の世継ぎ達成』であることを裏付けている。

いずれにせよこの事件は兄弟二極体制の終焉を意味しており、つづく富士朝一極体制の幕開けとなる。




〜阿和武男命(マゴコロタケル)〜

  • 宮下文書版クニトコタチ孫
  • トヨクムヌの一人っ子
  • アメノオシホミミ父
  • ホツマ版男神アマテル(ワカヒト)?
  • 熊野若一王子(若宮信仰、王子権現)?
  • 若宮八幡?
  • ワクムスビ(ワカムスビ)?
  • アワナギ?
  • ニギハヤヒの一部???




〜妹・松島毘女命(マゴコロアイヒメ〜

  • 宮下文書版ウイジニ九女
  • 月桜田毘女命の妹
  • マゴコロタケル妃
  • アメノオシホミミの系譜上の母
  • ホツマ版ヒルコ(アメノオシホミミ養母)?
  • ワカヒルメ・ワカヒメ?
  • 九頭竜神(御子アメノホヒを瀬織津姫に取られる)?
  • 玉津島神?
  • 天棚機姫神?




〜姉・月桜田毘女命〜

  • 宮下文書版ウイジニ長女
  • ツクヨミ妃、カグツチ妹
  • 松島毘女命姉
  • アメノオシホミミの???
  • 瀬織津姫命?
  • アマテラス荒魂?
  • ヤソマガツヒ?
  • オオゲツヒメ?




ここからは個人的妄想となるが…。

宮下文書三輪本現代訳p61によると、アメノオシホミミは阿和武男命の御子だと明言している。ただ松島毘女命までは言及されていない。率直に言わせていただくと、宮下文書とホツマツタヱを併せて読む限り代理出産の可能性もありそうかなと思っている…。

となれば一体誰が…?。

 

神代の状況説明をすると。当時ツクヨミ妃の月桜田毘女命は高天原加茂山に拠点を置いており、オオヤマツミを含め八男一女子宝に恵まれてきた。ホツマツタヱにおけるアメノオシホミミの母神・瀬織津姫命に比定できそうだ。日本書紀における正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は八王子神、宮下文書における寒川毘古命ことオオヤマツミ諱は正哉山住命という。遺伝子的には松島毘女遺伝子に最も近い人物であったわけでかなりの適任者と思われる。

いずれにせよこのときツクヨミ夫妻もこのとき、遥々淡津佐から子宝祈願にやって来た妹夫妻を、高天原で出迎えていたハズだ。

 

ただこれはあくまで熊オッサンの憶測であり、真相は宮下文書における新しい記述の発見を待つしかないであろう。後世にも様々な議論・憶測を呼んだと思われる。正直…現代人の感覚では、縄文文化を推し量れない部分も多い。それにしても待望の御子を置き去りにして夫妻揃って同日他界せねばならなかった理由は何だろう?。おそらくは日本史最大級のミステリーとなるであろうが、最大のヒントは諡『マゴコロ(真心)』にあり、夫婦のケジメを感じていたのではないか?と思われる。

 

崩御を遂げたマゴコロ夫妻は太神宮近く『菅原』に埋葬された。お察しのように後世の菅原道真祖先はサルタヒコ子孫であり、古来からこの地で太神宮神官をしていた。この地はクニサツチの埋葬地であるが比定地は不明、ただクニサツチは長寿であった故にマゴコロ夫妻の方が先に埋葬された可能性あり。現在付近には山梨県富士吉田市下吉田『天神社』がある。かつては連歌明神とも呼ばれ、戦国時代の領主小山田信茂が連歌の会を催したという。境内には『機神社』があり天棚機姫大神が祭られる。

熊オッサンが参拝したときは直感的に、アメノオシホミミ妃タクハタチヂヒメかな?と思ってしまったのだが…。今思うと松島毘女命?だったのかなとも思う…。

 

(´(ェ)`)



 

 

 

 

 

三峰川に『さんよりこより』がこだまする。



 

瀬織津姫命を祀る、長野県伊那市富県『桜井天伯社』に到着





ホツマツタヱ比定は誰なのか?

 

前記事でも述べたように、ホツマツタヱにおける瀬織津姫命とヒルコと九頭竜神の関係は、我が子を取り合ってしまった図式にも見える。はじめは何でこんな複雑なのかイマイチよくわからなかったが…、結局マゴコロタケル事件を隠蔽しつつも、アメノオシホミミとアメノホヒにその影響を投影させているのではないか?と思うようになった。

そして、我が子アメノホヒを瀬織津姫ホノコに奪われた九頭竜モチコ、その彼女への逆恨みと復讐心が因果応報のように自身へと返ってきた形となる。

 

 

①九頭竜神がスサノオと不倫をして、瀬織津姫命がアメノホヒ預かる。

②瀬織津姫命がアメノオシホミミを産み、アメノホヒを育てる。

③ヒルコとオモイカネが、タヂカラオ・シタハル・ウワハルを産み、アメノオシホミミを育てる。

④九頭竜は瀬織津姫がとっくの昔に死んだことを知る。戸隠にてタヂカラオに諭され封印される。

 

 

結果として月桜田毘女命と松島毘女命の桜姉妹を並祀せざる得ない状況に陥っていた。こうしてみると、シタハルと瀬織津姫命を祀る武蔵一宮小野神社もホツマ神道大系の延長線にあるとわかる。これが小野神社(東京都府中市)由来の府中日顯・而小野月隱の正体なのであろう。以降形を変えて継承され、日神ヒルコ(ワカヒルメ)と月神瀬織津姫の『妹背の道』の並祀へ発展したと思われる。

さらに後世の記紀では、アメノオシホミミはアマテラスから生まれたことに統一された。このような皇史改竄の隠密性ゆえに、瀬織津姫命は消えざる得ない状況になっていたのではないだろうか?。



〜ホツマツタヱ妹背の道(伊勢語源?)〜

  • 豊受大神(宮下文書版クニトコタチ)
  • 男神アマテラス(宮下文書マゴコロタケルの投影?)
  • 瀬織津姫命(宮下文書版月桜田毘女命?)
  • ヒルコ(宮下文書版マゴコロアイヒメ?)



神代皇家のデリケートな世継ぎ問題ではあるが、実際のところは家族周辺にしか知らされなかったブラックボックスだった可能性もある。そのエピソードは時代を越えて曲解や美化されつづけ、王が死ねば妃・家臣が続くのは当然という、埴輪発明以前の残酷な風潮を生じさせてしまった可能性もある。宮下文書文書の曖昧な記載故に様々な憶測が生まれていたのではないかと…。上古〜ホツマツタヱ編纂時代の祭祀従事者も煮え切らない気持ちだったのではなかろうか?。それでも祖霊信仰の子孫からしてみれば…日々の祭祀をやめるわけには行かなかったのだろう。










 

 

 

桜井天伯社から神輿が帰還へ。

 

 

天伯ニギハヤヒ説?、ただし祖家ウマシマジの影あり。

 

最近よく思うのがネットで騒がれているニギハヤヒ論争とは、このマゴコロタケルと月桜田毘女命がルーツではないか?と言うこと。ニギハヤヒと瀬織津姫命は宮下文書に登場せず、唯一揃って登場するのはホツマツタヱのみ。ただ二柱の時代背景は全く異なり、夫婦になれるわけがないのである。正直このニギハヤヒ・瀬織津姫夫婦論は情報ソースは不明、どちらかというと都市伝説に近いように思うが…。

ニギハヤヒとニニギにはそれぞれ別系統の天孫降臨伝承があり、前記事ではニギハヤヒ≒天孫タマノオヤではないかと述べたが…。結局タマノオヤは八幡信仰・熊野信仰を通じて祖父マゴコロタケル(若宮)を奉祀していた立場なわけだ。先代旧事本紀のニギハヤヒ別名・天照国照彦天火明櫛玉饒速日は、結局ホツマ版アマテル・タマノオヤ(櫛玉)・ホノアカリらを纏めて内包しているのだろう。時代・時代により定義もかなり変わってきているのではないかと…。

結局記紀ベースのニギハヤヒ論とは、結局マゴコロタケルの要素が強いのではないか?と思うようになった。

(´(ェ)`)。



▲アマテラスの天孫=ニニギ

▲クニトコタチの天孫=マゴコロタケル?

△宮下文書版マゴコロタケルの天孫=ニニギ(四季島統治再編完了)




ここで思い出していただきたいのが、天伯様が三峰川支流藤沢川から流れて来たことだ。奇しくも高遠町藤沢には物部系の守屋神社がある。真偽のほどは不明であるが、587年『丁未の乱』にて蘇我馬子に敗れた物部守屋二男(のちの守矢氏祖)が隠れ住んでいたという伝承あり。現在も末裔を称する守屋姓が多いという。だとすると日本書記ベースで考えれば、物部守屋が祖神ニギハヤヒを祀っていてもおかしくはない。

ただ忘れてはならないのが、古事記以降ニギハヤヒの御子が物部祖ウマシマジにされてしまっている点。宮下文書ではニギハヤヒは登場せず、ウマシマジは祖家(蘇我大伴系統)となるので注意。

 

〜ウマシマジ末裔の家系〜

▼古事記ニギハヤヒの御子   物部氏祖

▲宮下文書フトダマ55世孫、蘇我大伴氏(祖家)

 

※長野県伊那市高遠町藤沢『守屋神社』

 



一方で、祖家や忌部がマゴコロタケル祭祀を重視していたのは確かなようだ。

中国地方に渡り田地間・稲葉国造となったフトダマ55世孫ウマシマジの痕跡ごと、何故か物部系統にすり替えられてしまっている気がする。石見一宮『物部神社』の御祭神がウマシマジなのもその影響ではないかと。それと同様に、信州諏訪湖に近い守屋神社は詳細が不明であり、改竄されたものである可能性も認識しておかねばなるまい。そもそも諏訪湖の地主神タケミナカタも、戸隠地主神タヂカラオも祖家系なわけで、この祖家影響力を排除しカムフラージュしている可能性もありそうだ。

同時に祖家ウマシマジ子孫・蘇我と大伴がいかに大きな祭祀的影響力を各地に持っていたかが分かるであろう。これを改竄したのはおそらく藤原や記紀。蘇我・大伴を滅ぼした彼らはこの影響力を恐れ、ニギハヤヒや滅亡した物部氏の名を使って今も全国各地を封じている格好だ。

 




◯『安房一宮安房神社』(千葉県館山市大神宮)

〜御祭神〜

  • 天太玉命(忌部氏祖)
  • 天比理刀咩命(フトダマ妃)

 

〜忌部五部神〜

  • 櫛明玉命( 出雲忌部祖)
  • 天日鷲命( 阿波忌部祖)
  • 彦狭知命(紀伊忌部祖)
  • 手置帆負命(讃岐忌部祖)
  • 天目一箇命(筑紫忌部・伊勢忌部祖)



〜宮下文書における忌部解明?〜

▲祖家フトダマ55世ウマシマジ二男・御鉾海辺命(安房忌部氏か?)

▲皇別タマノオヤ53世・日鷲気留木彦命(天日鷲命か?)

▲櫛明天手長命46世・櫛明玉命(ワダツミ系か?)

 

さらにフトダマ55世孫ウマシマジ二子・御鉾海辺命が安房国に渡り、安房忌部祖となったと見られること。結局彼らはフトダマ祖家やタマノオヤ末裔で混成された祭祀集団で、皇祖神マゴコロタケル祭祀を任されていたようだ。武蔵国に出てくる大伴武日と出雲族エタモヒもシンクロしており、武蔵一宮に瀬織津姫命と天下春命を祀っている形跡がある。

出雲族がニギハヤヒを信仰してきたという説もあるが、おそらく出雲一宮熊野大社の熊野信仰(若一王子)の影響を指していると思われる。さらに熊野国造祖の穂積臣藤白鈴木氏が、物部同祖としてニギハヤヒを祀る理由も合点がゆく。おそらくは熊野若一王子≒ニギハヤヒ≒ホツマ版アマテルと語っている人もいるのだろう。

熊オッサンが言うのも恐縮だが、根拠のないスピリチュアル情報が氾濫していると思われる。
(´(ェ)`)。



 

 

 

 

 




さんよりこよりが指し示すものは『位山』だった。



結局、さんよりこよりの神輿ルートはなにを意味しているのか?、とりあえずいつものお約束でグーグルマップで線を引いてみた(苦笑)。Googleマップ占いとも呼べそうだがなんと…、飛騨一宮水無神社の御神体『位山(くらいやま)』を指し示しているではないか!!。

前記事では乗鞍岳の古名が位山(安房国山)だとご紹介した。今回はもう一つの水無神社御神体であり、宮川と飛騨川の分水嶺『位山』なので注意。

 

(´(ェ)`)

 

 

 






◯飛騨一宮『水無(みなし)神社』(岐阜県高山市一之宮町)

 

〜主祭神〜

  • 御歳大神

〜配神〜

  • 大己貴命
  • 三穗津姫命
  • 応神天皇
  • 高降姫命
  • 神武天皇
  • 須沼比命
  • 天火明命
  • 少彦名命
  • 高照光姫命(ホツマ版ヒルコの同一視?)
  • 天熊人命
  • 天照皇大神
  • 豊受姫大神
  • 大歳神
  • 大八椅命

※水無大神=八幡神という説あり。御神木が位山。

 

 

 

御祭神は水無大神(御歳大神ほか14柱の総称)で、位山を水主神の御神体として五穀豊穣を祈願をしたという。この地は神通川(宮川)と飛騨川の分水嶺となる。ヲシテ文献ミカサフミ散逸文における御歳神は、歳徳神、『シタテルの年の恵みの大御守』。ホツマツタヱにおけるツクバのイサ宮で誕生した、ヒルコ(ワカヒメ・ワカヒルメ)のこと。なぜかホツマツタヱでは、タカテルヒメ・シタテルヒメとも同一視されている。

また、飛騨名物『さるぼぼ』にも注目、アマガツの一種でホツマツタヱでは厄災の人形祓いの一種のように記載されている。速開都姫アキコがアメノオシホミミとタクハタチヂヒメの婚姻の際に贈ったとされる。興味深いのがこれが飛騨山脈東側の安曇野大町『若一王子神社』にも伝播されているとみられ、例祭日には『ぼぼさま』という子神が町を練り歩く。水無神社では4月3日 に飛騨生きびな祭り、養蚕祭が始まり、養蚕と農業の振興を祈願する。内裏様・お雛様・官女などに扮した未婚女性9人が稚児を引き連れて町内を練り歩く。

また..かつて位山の櫟(イチイ)を笏の材料として天智大君に献上した折に、この木が官位一位を賜った。以降木を櫟、山を位山と呼ぶようになったという説があり。阿波忌部氏の麻の反物である麁服(あらたえ)とともに献上されている。この櫟と麁服が…なんと飛騨〜阿波へのレイラインとなって、阿波と安房、松島と桜島を結んでいたわけだ(苦笑)。

 

 

 

 

▲月桜田毘女命…桜島???

▲松島毘女命……松島???

 

 

 

 

 

 

〜位山三山〜

  • 位山(水無神社御神体)
  • 船山
  • 川上岳

 

また位山には、船山と川上岳の女神二柱が男神一柱に求愛するという伝承もある。位山男神が『名月を合図に、先にこちらに着いた方を娶ることにする』と告げ競わせたという。船山側女神は化粧をしていた為に出遅れ、悲しんだ彼女は位山との間に『無数河川』という川をつくり断絶させた。飛騨川となり木曽川と合流して太平洋側伊勢湾へ注がれ、宮川は神通川と合流し日本海側富山湾へ注がれる。

阿波と安房、櫟と麁服、松島と桜島。807年と8月7日。

こ…こんなカラクリは人間に作れないだろうと感心してしまう。宮下文書マゴコロ夫妻とホツマツタヱ妹背の概念、桜と松の意味がわからなければ解読は難しいだろうけど…。やっぱり神さまいるとしか思えないんですよね~。

『さんよりこより』も、妹背を知った今となると『産より子より』と聞こえてしまうのだが…。

(´(ェ)`)

 

 

 

 

◆x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

https://x.com/sekihotu

 



 

 

www.sekihotu.com

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※地図はクラフトマップ使用。

www.craftmap.box-i.net

エタモヒ大伴武日は武蔵国でシンクロする、富士太神宮鳴門阿蘇のレイライン大交差点。

 

 

 

エタモヒの祭祀場『人見稲荷神社』
今気づいたのだが…所在地が若松という。

 

 

2025,3,24

また人見稲荷ネタです(´(ェ)`)。

さらに驚愕の事実です(´(ェ)`)。

マイナー神社をゴリ押しすぎると読者の方々から叱られそうなのですが、熊オッサンが人見稲荷神社に驚かされたのはこれで3度目になる。

一回目は、高千穂峰〜富士山のレイライン上に、小野神社(多摩)・大國魂神社・人見稲荷神社と、小野大神を富士山へ3箇所祀っているという点…。

二回目は、大國魂神社修造とともに、熊オッサンの推定ご先祖さま武藤資頼が創建していた点…。

そして三回目。今回の記事なんですけれども…やはりガツンと打ちのめされた感あり、しばらく立ち直れそうもないほど...。

 

結論から言うと人見稲荷は…。①阿祖山太神宮古宮跡〜鳴門〜忌部大神宮〜阿蘇神社のレイラインと、②富士山高千穂峰レイラインのクロスポイントとなっている。そして小野神社と人見稲荷神社に関与したと思われる、出雲族武蔵国造エタモヒ(兄多毛比命)。彼は果たしてアメノオシヒ系大伴武日なのか?、結局彼らが武蔵国でやりたかったこととは何なのか?...を深掘りしてみる。

 

 

 

 

~目次~

 



宮下文書で妹背解明、飽波神社の瀬織津姫・ヒルコをそれぞれ夫神たちが見守っていた?。 - セキホツ熊の謎を追え!

〈東国祖家大国〉瀬織津姫・稚日女命・丹生都姫も祖家女系だった?。忌部は隠蔽された皇族史を祀っていた。 - セキホツ熊の謎を追え!





 

 

見てしまった武蔵国府の究極形態???

以前からご紹介してきた『富士山高千穂峰レイライン』だが、実はもう一つのラインが確認できる。厳密にいうと以前紹介しているのだが、当時は勉強不足のため阿波忌部氏や阿波皇祖神マゴコロタケルの重要性にまったく気づいていなかった。今回式内社名神大社論社『山崎忌部神社』がライン上にドンピシャなのが判明。中世近隣は伊勢神宮を凌ぐ広大な神領の社で、現代でも論社論争が残る。

結局これが武蔵国に託された大きな祭祀テーマとも思われ、大伴武日・エタモヒ・武藤資頼・歴代武蔵国造たちが究極的にやりたかったことなのかもしれない。



①太神宮・鳴門・阿蘇レイライン

〜5月5日朝日の方角?〜

 

  • 常陸一宮鹿島神宮明石浜鳥居
  • 常陸一宮鹿島神宮坂戸神社
  • 熱田神社(日本武尊由来、806年社殿造営)
  • 蛟蝄神社奥の宮(関東最古の水神説)
  • 香取鳥見両神社
  • 松戸神社(日本武尊・大伴武日待ち合わせ)
  • 王子・平塚神社(義家・義綱・義光)
  • 井の頭弁財天大盛寺(源経基創建、頼朝建立)
  • 都立多磨霊園(三島由紀夫ら著名人の墓)
  • 人見稲荷神社(瀬織津姫命、エタモヒ祀場)
  • 大國魂神社神社(大國魂神、東殿小野大神)
  • 小野神社(府中市、瀬織津姫命、シタハル)
  • 真慈悲寺旧跡
  • 平山季重神社(平山八幡奥宮日奉神社、アメノオシヒ日奉連)
  • 阿祖山太神宮古宮跡
  • 北東本宮小室浅間神社(阿曾谷宮守神社)
  • 北口本宮富士浅間神社
  • 新屋山神社
  • 身延山久遠寺(1kmズレ)
  • 和志取神社 (三河国式内社)

 

  • 彌尼布理神社(806年創建、伊勢国式内社)
  • 比佐豆知菅原神社(伊勢国式内社)
  • 大村神社(タケミカヅチ、要石、地震の神)
  • 城之越遺跡(国名勝・史跡、祭祀場跡)
  • 日朝山弥勒寺
  • 毛原廃寺跡
  • 都祁水分神社(大和国水分四社)
  • 石上神宮(1.5kmズレ)
  • 大和神社(日本大国魂大神)
  • 夜都岐神社(春日四神)
  • 行燈山古墳(崇神天皇陵、2.5kmズレ)
  • 鏡作坐天照御魂神社(10代崇神時代創建)
  • 鏡作伊多神社(宮古)
  • 葛木倭文坐天羽雷命神社
  • 二上山(大津皇子二上山陵墓)
  • 叡福寺(聖徳太子御廟、600mズレ)
  • 春日向山古墳(用明天皇河内磯長原陵)
  • 山田高塚古墳(推古天皇陵・竹田皇子墓)
  • 太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵)
  • 錦織神社(河内国三水分)

 

  • 由良湊神社(速開都姫命、500mズレ)
  • 諭鶴羽山(淡路島最高峰)
  • 鳴門渦潮(4.5kmズレ)
  • 事代主神社(鳴門えびす、蛭子前)
  • 山崎忌部神社(式内社名神大社論社、忌部大神宮、800mズレ)
  • 高越寺(山崎忌部神社別当、2kmズレ)
  • 御所神社 (つるぎ町、忌部神社論社論争)
  • 清頭岡磐座(磐座祭祀場)
  • 摩尼珠山吉祥院多聞寺(空海開基)
  • 早吸日女神社(ヤソマガツヒ、2kmズレ)
  • 久住神社(式内社、くじゅう山上宮)
  • 肥後一宮阿蘇神社(式内社名神大社)
  • 熊本城加藤神社(加藤清正、阿蘇神社崇敬)
  • 加藤神社(天草郡富岡城跡北)

※人見稲荷と阿蘇神社を基軸にしたライン



 

 

②富士山高千穂峰レイライン

〜7月17日朝日の方角?〜

 

  • 女化神社(保食神、1kmズレ)
  • 柏神社(月読尊)
  • 西新井大師總持寺(空海開基)
  • 井草八幡宮(頼朝・道灌崇敬)
  • 武蔵八幡宮(坂上田村麿勧請)
  • 都立多磨霊園(三島由紀夫ら著名人の墓)
  • 人見稲荷神社(瀬織津姫命、エタモヒ祀場)
  • 大國魂神社神社(大國魂神、東殿小野大神)
  • 大國魂神社坪宮(エタモヒ)
  • 武蔵一宮小野神社(多摩市、瀬織津姫命、シタハル)
  • 勝五郎の道(平田篤胤・勝五郎再生記聞)
  • 新屋山神社奥宮
  • 富士山
  • 白糸の滝熊野神社(瀬織津姫命)
  • 秋葉山奥の院・八尺坊(1.8kmズレ)
  • 三河一宮砥鹿神社(大国主命)
  • 豊川稲荷
  • 御船・牟弥乃神社(伊勢国寒川、寒川神)
  • 天の川・弥山川
  • 弥山神社(天河大辨財天社奥宮2.5kmズレ)
  • 塩屋王子神社
  • 月山神社(大月町『旧守月山月光院南照寺』、月弓大神・役小角・空海伝承)
  • 日向二宮都萬神社(桜川伝承、1kmズレ)
  • 無戸室・児湯の池
  • 日向総社三宅神社(1.5kmズレ)
  • 狭野神社
  • 皇子原神社(狭野元宮)
  • 高千穂峰(霧島神宮元宮)
  • 霧島神宮(天孫降臨伝承)
  • 帖佐八幡神社(元寇直後、弘安5年創建)

※人見稲荷と高千穂峰を基軸としたライン。

 

 

 

 

 


注目すべきは、宮下文書版健磐龍命の関係地『阿蘇神社』、スクナビコナ御子・久延仁毘古命とオオクニヌシ御子・下照姫命のあいだに生まれた阿曾武命のこと。蛭子命玄孫・海那毘女命を娶り海軍総大将として西征、大賊数万の軍勢を消滅させて戦死した。しかしその活躍のおかげで、九州ウガヤフキアエズ神都が無事遷都され、夫妻は切枝間山(霧島山)の西の大山に埋葬されたとある。実際は…霧島山西というか北なので疑問も残るが、肥後一宮阿蘇神社とも関係があると思われる。

安土桃山時代加藤清正は熊本城を拠点とし、健磐龍命末裔を称する古豪阿蘇氏を再興を認め阿蘇神社を再建した。朝鮮出兵『文禄の役』では二番隊主将で少弐氏流鍋島直茂が従っていたようだ。もしかしたら熊オッサンの母方祖母の系統かも…(桔梗紋だが諸説あり)。


(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

 

境内には槻(つき)が多い、東京都多摩市一ノ宮『小野神社』

 

 

 

2つの小野神社と人見稲荷神社に、祖家大伴の影?

 

前記事でもご紹介したように…。『北多摩神社誌』p31府中市小野神社項曰く、『視二井諸忍野神狭命十世兄武日命がこの県の国造となった時、御祖神として、この地に勧請奉斎したと伝わる』。情報ソースは境内の古碑小野宮廟碑と思われ、その内容からエタモヒと大伴武日のシルエットが重なってくるようだ(後述)。

さらに御祭神シタハルが兄武日命の祖と明記されており、ネット上でも大伴武日命だとの声をよく見かける。まずは小野神社と祖家(宮下文書版蘇我大伴系統)の関係を浮き彫りにしたいところ。



◯一宮論社?『小野神社』(東京都府中市住吉町)

〜御祭神〜

  • 天下春命
  • 瀬織津比賣命

 

武蔵国多摩郡式内論社、小野神社所在地は一ノ宮(多摩)と小野宮(府中)にあるので注意。大國魂神社くらやみ祭では一之宮から小野宮を経由し大國魂神社へ入り、ともに一之宮の神輿を担ぐ。由緒書には、創建者兄武日命の祖神シタハルが関係しているものの、江戸名所図会には瀬織津比咩一座と記載されているという。

 

 

 

◯一宮論社?『小野神社』(東京都多摩市一ノ宮)

〜主祭神〜

  • 天下春命
  • 瀬織津比咩命
  • 伊弉諾尊
  • 素盞嗚尊
  • 大己貴大神
  • 瓊々杵尊
  • 彦火火出見尊
  • 倉稲魂命

※周辺は宮下家派生関戸氏の領地であった。鎌倉時代武蔵七党の小野氏族横山党(梶原景時母方)と、アメノオシヒ大伴連末裔の西党日奉氏(平山氏)の勢力範囲だった。17世紀以降の太田家記録によると、太田氏・新田氏で神主を継承してきた(両家ともに本姓源氏を称している)。つまり富士朝色がめちゃくちゃ強いわけで、武蔵一宮の座をスルーされ始めたのも結局これが原因ではないかと…。

 

〜wikipedia〜

△兄・天足彦国押人命(天押帯日子命、小野氏祖、小野神社と関係あり?)

◆弟・日本足彦国押人尊(孝安天皇、皇后押媛)

 

〜宮下文書三輪本現代訳神皇紀p145〜

△皇兄・日本武彦眞仁命(富士朝と東北諸国奉幣使)

◆神皇・日本足彦国押人尊(孝安天皇、皇后押日媛命)

▽皇弟・政彌武彦太命(南西諸国奉幣使)

 

 

※通説の和邇氏流小野氏は天押帯日子命末裔を称しているので注意。

 

 

またWikipedia小野神社によると当社はかつては小野氏祖の6代孝安皇兄・天押帯日子命を祀っていたというが、天押帯日子命が存在する前からある訳で、和邇小野氏族とは無縁の可能性が高い。となれば…どこかトリックを感じてしまう。

宮下文書によると、6代孝安皇兄・日本武彦眞仁命と皇弟・政彌武彦太命による大規模な東西祷祀があったようだ。武蔵国要衝であった小野神社もこれに関係していた可能性が高く、東征祈願所を担っていた感がある。奇しくも武蔵一宮小野神社と備後総社小野神社が、比叡山文殊楼を挟んで、神田明神と日月神示麻賀多神社(台方)への強力レイラインを形成している。備後國総社小野神社の御祭神が押姫命で、武蔵国小野大神の本地垂迹説は文殊菩薩である。

 

 







皇兄・天足彦国押人命は小野氏祖として知られるが宮下文書に登場せず、孝安皇后押日媛命というのは宮下文書版祖家でありアメノオシヒの語源ではないのだろうか?。

つまり祖家系統を表しているわけで、やっぱり当社と祖家大伴との関係が浮き彫りとなる。小野大神シタハルが大伴連祖であればあれば、宮下文書における祖家(蘇我大伴系統)と考えるのが妥当かなと…。

785年藤原種継暗殺事件以降に大伴氏族は全国的に衰退したために、彼らの東国での痕跡を無くすために、小野氏族が一時的にその役割を担った感がある。さらには鎌倉時代、武蔵七党西党アメノオシヒ日奉氏連平山氏の勢力範囲も近い。となるとこの地で大伴武日とエタモヒが混同されてもおかしくはない。

 

東西『小野神社』と天足彦国押人命、武蔵国蘇我大伴と小野氏族の関係とは? - セキホツ熊の謎を追え!

日月神示×出口王仁三郎生誕地、成田山×平将門、月読命×瀬織津姫のレイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

◯『人見稲荷神社』(東京都府中市若松)

〜御祭神〜

  • 天下春命
  • 瀬織都比咩命
  • 倉稲魂命

 

〜祓戸神社〜

  • 瀬織都比咩命
  • 速開都比咩命
  • 気吹戸主命
  • 速佐須良比咩命



※鎌倉時代1232年に武藤資頼が『三所之宮』として創建、1597年(慶長2年)稲荷社合祀。富士山方面へ小野大神を祀る小野神社・大國魂神社・当社が3つ並んでおり、境内摂社は祓戸神社がある。

北多摩神社誌p27人見稲荷神社項によると『武蔵国造兄武比命の祀られた社であり、六所宮客来三所之神と称される』とあり、創建以前からエタモヒ祭祀場として認識されていた。同時期に行われた小野神社(府中)への関与を鑑みても彼らがこの武蔵府中を重要視していたことは明白。ただ当社御祭神としてエタモヒは祀られておらず、エタモヒが祀っていたのか?、エタモヒを祀っていたのか?…解釈が分かれるところ。







 

 

 

 

兄武日命の偽装説。

 

上述した北多摩神社誌p31における兄武日命の情報ソースは、江戸期1795年に建てられた『小野宮廟碑』と思われる。とりあえず確認のため府中小野神社へ向かい本殿裏の奥まったところに古碑をみつけた。エタモヒの表記は兄多毛比か?、兄武日か?はたまた兄武比か?…。ところが意外過ぎた、日と思いきや…まさかの『月』。

 

▲兄多毛比命(大國魂神社・坪宮)

△兄武日命(北多摩神社誌の府中小野神社項?)

△兄武比命(人見稲荷神社)

 

実際は…兄武月命でした?(´(ェ)`)。

期待していたのとまったく違う、やはりこういうのは原物をみないと判断は難しいんだなぁ~。しかしながら神主や石工が日と月を誤植したと考えるのも無理がある。ニュアンス的には、『武日』の記載を誤魔化したいのか、あるいは月神をなんとか後世に伝えたいとの思惑も受けた…。

 

 

〜小野宮廟碑釋文〜

 

小埜宮廟碑

 

小野宮者、在武藏州多麻縣小野村、在昔 安寧天皇使兄武月命國造此州、兄武建府於此縣、置祖廟於此地、兄武者下春大神之後、二井諸忍野神狭命九世孫、下春者天孫隨駕三十二神之一、而威靈之最也、遂稱縣日縣府中、號廟一宮、 時謂州爲國、謂守爲造、謂廟爲宮、謂創爲一皆古言也、小野元縣名府中日顯小野月隱地属多麻縣、而名僅存於村落耳、蓋上古質朴無廟號、獨依地而稱矣、今也小祠存羊、亦其名見於延喜式神名帳、爲古廟也明矣、旁有枯株 、周囲十尋許、其上可坐百人、葉枝高聳摩天、殆乎有二千餘歲之想、爲故地也明矣、創降建置莫古焉、舊制威靈鍾於此、宜也四方祈福隨應有驗、内藤子章名重喬好古善醫、今茲傷其衰、修廟勒碑使余銘焉、長島侯援筆篆碑面、銘日、

鍾靈創祠 二千餘年 志士勒碑 不朽是傳

 

寛政七年九月望日、出雲國下大夫江都鳩谷孔平信敏撰、男信龍渉筆、次信鳳修約、長島侯人藤原巖恭書、内藤重喬肅

 

※府中小野神社の小野宮廟碑

 

 

神狭命とは通説アメノホヒ曾孫・出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭。つまりアメノホヒやタケヒラトリ系出雲族を示している。ただこれが3代安寧朝だと…、未だ大伴武日命や兄多毛比命すら存在しない時代であり、大國魂神社も創建されていないハズ。ではこの兄武月命とは一体誰のことなんだろうか?。

もしかして武蔵国出雲族というのは...宮下文書3代安寧朝申食国政大夫(左臣)・出雲色命から来ているのか???。因みに宮下文書版安寧天皇時代BC536年にも国賊蜂起がおこり、安房武正命・香取太良太命・鹿島武雄命・貫前政男命の四将に討伐させており、個人的にはこれが小野神社の創建理由ではないかとみている。また7代孝霊朝太正国政大夫・蘇我武日命の存在も気になる所、8代孝元皇后・鬱色謎媛命の父であり5世孫にあたる大伴武日と同名であるようだ。

 

 

※宮下文書版ウマシマジは物部連祖ではなく、祖家(蘇我大伴)系統なので注意。

 

 

ややこしいことに、アメノオシヒとアメノホヒはホツマ版九頭竜モチコと深い関係があり、通説大伴氏祖アメノオシヒの別名を神狭という。さらにややこしいことに宮下文書祖家家系図はもはや異次元レベルの代物だ。宮下文書を正史と置くならばアメノオシヒとアメノホヒは登場せず、アメノオシヒ系大伴武日とアメノホヒ系エタモヒの出自は疑われて当然となる。

いずれにせよ、ホツマ・記紀によって欠史八代までの各神系図が滅茶苦茶にされている状況だ。既成概念を越える発想がなければ真相が見えてこないレベル。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

日本武尊・大伴武日の東征目的。

 

結局、ヤマトタケルは東国への領土拡張に興味がなかった。

とにかく富士山祖霊神の祟りが怖いので、富士朝神道からは脱却し、西国に都合の良い新しい神道大系を造り出したかったのだ。東征完了後、高天原に副将大伴武日を目付役として残留させ、富士朝大宮司家に国造を任せ、即刻尾張へ逃げ帰った。

歴史改竄の実行役は大伴武日であった。ただその工程すら消す必要があった。同時に出雲族エタモヒなる人物を創出する必要もあった。そうすることによって武蔵氷川などの出雲信仰ルーツを、中国地方由来に転化させ紐付ける効果が生まれた。氷川神スサノオは信州出雲からではなく、中国地方出雲からやってきた事にする必要があったのだ。

 

 

〜日本武尊・大伴武日の歴史改竄?〜

 

①東国を黙らせる。

②大伴武日に東国史を改竄させる。

③自分の痕跡を消す。

④吾嬬惣国を建国、国造を富士朝大宮司に任せる。

⑤祟りが怖いので、ヤマトタケルが尾張に帰還。

⑥西国天皇勢力に有利な、新しい神道大系を成立させる。

 

 

これが武蔵国にて広く、12代景行時代と13代成務時代の二重性として確認される。

例えば氷川神社では、ホツマツタヱ版ヤマトタケルがスサノオを祀り始めたと明記されているものの、Wikipediaでは成務時代出雲からやってきたエタモヒが氏神として祀っていたという。要は二重性が確認されるのだ。思うに武蔵国出雲族というのは、オリジナル出雲の所在地がバレないように、成務時代エタモヒという附会の人物を使って、景行時代の大伴武日の痕跡を撹乱しているのだろう。

 

 





 

 

東京都府中市住吉町『小野神社』

 

府中日顯・小野月隱とは何だ...?。

 

上記の小野宮廟碑釋文から興味深いワードが出てきた。『小野村の元縣名は、府中日顯、そして小野月隱…。地図上確認すると周辺に日新町があり谷保天満宮発祥地なのだという。さらには近隣にてアマテラスを祀る三社宮神明社には、太神宮ら三社合祀されているとのこと。あくまで状況から察するに、本来この地域は日神・月神に分かれて奉祀していたのかもしれない。

 

考えられるのは妹背の日月祭祀?。



前記事で述べたようにマゴコロ夫妻は世継ぎに恵まれず、御子アメノオシホミミの母神がイマイチ定かではないのだ...。他神の説明文では御子・一子とかの言及があるが、マゴコロタケル事件に関しては皇家のデリケートな問題故に記録上でも明言を避けている節がある。これが古来から皇祖祭祀上のネックとなっていた可能性はある。

仮に第三者による代理出産であれば、正后・松島毘女命に一番近い遺伝子を持つ姉・月桜田毘女命が浮上するわけだ。神道=祖霊信仰であり途絶えさせることはできず、祭祀的に不明な箇所があれば姉・月桜田毘女命と妹・松島毘女命を並祀するしかなかったのであろう。

つまり瀬織津姫命に比定される女神が、クニサツチ女系ツクヨミ(月神)、クニトコタチ男系マゴコロタケル(日神)の二柱ともに関係を持っていたことを暗に示していた…?。そんな謎の女神が皇家男系祖であり、皇家女系祖でもありうるのか?。もしそんな存在がいるとしたら…とてつもない神威を持つことになる。

いずれにせよ日神と月神を並祀して日嗣(ひつぐ)とするのがホツマツタヱ版の妹背的流儀とみられ、伊勢神宮に影響を与えたと思われる。もしかしたらこの武蔵国でも行われていたのか?。

 

(´(ェ)`)
















5月5日『くらやみ祭』の意味。

次に上記の5月5日レイラインの意味を考えてみよう。

宮下文書三輪本現代訳神皇紀p150を要約すると、10代崇神天皇は中央集権を達成させるため、富士朝太神宮を貶めてその権威を削ぎ落とそうと画策していた。彼はまず高天原麻呂山からアマテラスを大和国笠縫の里へ遷座、三品の大御宝とともに祀った。

そこに飢餓・疫病・盗賊蜂起が立て続けに起こり、その神威を恐れる事態となった。そこで皇女の豊鍬入媛命・渟名城入媛命に命じて、アマテラス御神前にて大國魂神祭を行わせた。さらに吉備彦命(のち四道将軍)を富士高天原へ遣わしてあらためて阿祖山太神宮と各七廟を祀らせた。以降5月5日の太神宮大祭日には、崇神天皇・皇后が自ら高天原へ行幸し、四季の大祭には奉幣使を遣わした。欠史八代中でも彼の富士朝帰依はかなり興味深いが、最終的に三品の大御宝が返還されることはなかった。

この大國魂神祭とは現在の奈良県天理市『大和神社』の日本大國魂神と思われる。ホツマツタヱ比定の大和国魂神クシヒコ、宮下文書比定では尾張・大和・伊勢を領していた地主神スクナビコナ(諡・大國御魂命)と思われる。現在武蔵国大國魂神社境外摂社・天神社にもスクナビコナが祀られている。こうして崇神は富士朝アマテラスと大和国地主神祭祀を重視していたわけだ。

 

奇しくもこれが5月5日朝日のレイラインによって、大和神社→高天原太神宮→武蔵国大國魂神社に連携されていたわけだ…。だとすれば5月5日武蔵国大國魂神社の奇祭『くらやみ祭り』の意味も浮き彫りとなる。結局は富士朝・ウガヤ朝・阿波皇祖神を一括して武蔵国府で祀っていたのではないかと…。大國魂神社のシンボルはクニサツチの愛した霊鳥カラスであり、本来は高天原で行うべき大祭を、富士朝から人々の目を逸らさせるために武蔵国で継承してきたともいえる。

 

(´(ェ)`)








 

7月17日とは?

 

当ブログではタカミムスビ以前の歴史についてはなるべく触れないようにしている。阿族のルーツは岩間本と三輪本でかなり違い、原書を読まない限り何とも言えないのだ。それに最も慎重であるべき箇所だと考えている。ただ彼らが海外から来たのは間違いなく、日ユ同祖論を否定しきれない部分でもある。

そして上記の富士山高千穂峡レイラインは、7月17日の朝日のラインであり、これが京都祇園祭の山鉾巡行やユダヤ教のシオン祭日と重なる。つまりノアの方舟が陸地に漂着して陸地に到達して、その新天地の門出を祝う記念日となる。

 

熊オッサンは専門ではないので恐縮ですが…。

アメリカの自動書記で有名な『オアスペ』によると、創造主は初めての人間アスを作った。そして天使とアスとの間にイヒンが生まれ、パン大陸で興亡を繰り返した。日本人は25000年前の大洪水によりパンから残島ザ・パンに漂着したイヒンの末裔だという。斯様なわけでノアの方舟伝承は、日本人と深い関係があるとの指摘もある。

そう言われると…現在も山梨県富士吉田市の阿祖山太神宮古宮跡には大明見(オオアスミ)や明見という地名が残っている。直訳するとアスミとは人見(ヒトミ)と同義なんだよね…。

(´(ェ)`)

奇しくも…熊オッサンは2023年7月17日富士山に登頂して、日の出を拝んできたわけだ。奇しくもドラゴンヘッド移動日前日、新月前日であった。

 

 

 

偶然なんでしょうか…(´(ェ)`)

 






 

 

おわりに。

 

東京都府中市若松付近は、子供の頃拾って飼っていた雑種犬の共同墓地。職場への通勤路ともなっており、ほぼ毎日参道前を横切っていた時期もある。人見街道沿い消防団のとなりに鳥居があるのは知っていた、それが人見稲荷というお社のものだと知ったのはずいぶん後になってからである。2018年秋頃この神社で『ブログ始めます、頑張ります』と宣誓した、その瞬間突風が拝殿前を吹き抜けたのを覚えている。

瀬織津姫命を知らなければ、知らないなりの生活をいまでも送れていたのだろうか?。知らなかったとは言え…とんでもないところで、とんでもないこと言っちゃったんだな〜。

まいっか…(´(ェ)`)

 

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※地図はクラフトマップ使用

www.craftmap.box-i.net

 

 

宮下文書で妹背解明、飽波神社の瀬織津姫・ヒルコをそれぞれ夫神たちが見守っていた?。

七年ぶりの再訪、静岡県藤枝市藤枝『飽波神社』

 

 

2025,3,9

 

前記事でご紹介した阿波々神社。そこから阿波×安房レイライン上を東へ向かうと、瀬戸川沿いに瀬織津姫命・蛭子神・アメノオシホミミを祀る大変珍しい飽波神社がある。

この地で『妹背の道』の痕跡をたどっていたら、そのエリアを見守っているかのように若一王子神とツクヨミが祀られているのを発見した。まるで熊オッサンの妹背論を裏付けるかのように…。

 

これも偶然なのかな?(´(ェ)`)



~目次~

 

九頭竜・ヒルコ・ワカサクラヒメは同一神ではないのか?、阿波✕安房あわわ神社レイライン - セキホツ熊の謎を追え!

天忍日命は九頭竜神の手先、天つ神系出雲族・天穂日命と似て非なるワケ? - セキホツ熊の謎を追え!



 

 

 

ホツマツタヱにおける『妹背の道』のおさらい。

妹背(いもせ)とは?。

諸説あるが、和歌世界では恋人愛・兄妹愛などを指すといわれており、伊勢の語源とも言われる。歌人らは妹背を詠んでおり、宮下文書的にはこのワカ(若・稚・和歌)がマゴコロ夫妻に深く関係しているように思えてならない。ホツマツタヱでは紀州玉津島の縁起として、ワカ姫ヒルコ=ワカヒルメに言及されている点にも注目。和歌山湾から阿波国鳴門渦潮を望むこの地は、後世多くの歌人たちにこよなく愛された景勝地となる。

 

現在のところ妹背初見はホツマツタヱと思われ、その編纂期に誕生した伊勢神宮との関わりが指摘される。神代伊勢は、男神アマテラス(アマテル)と内宮瀬織津姫の本拠点であった。アマテルが辞世する神上がりに際して遺言を残し、アマテル・トヨケ・瀬織津姫・ヒルコを祀り妹背の祭祀に徹するように周囲に伝えた。つまり後世に紡がれるであろう歴代神皇たちへの、民を治めるための教えの一つでもあった。

ここで編纂者たちが一番やりたかったのは、クニサツチ系統アマテラスがクニトコタチの男系遺伝子を継いでいるように演出したかったのであろう。言い換えればクニトコタチ男系遺伝子を継ぐことこそがこの国のアイデンティティと理解した上で、神系譜のリストラを断行していた。つまり皇家のクニトコタチ男系遺伝子信仰は最低限、確保していたわけだ。

ホツマツタヱ神道大系ではこの祭祀フォーメーションが非常に重視されており、編纂成立期に創建されている『伊勢神宮』をかなり意識していると思われる。だとすれば妹背とは、アマテル・ヒルコ(ワカヒルメ)・瀬織津姫の関係性に重大ヒントがあると睨んだ…。

宮下文書にて徹底的に比定神を洗い出してみた。



〜背の道(籠神社真名井奥宮?)〜

▲外宮トヨケ(クニトコタチ夫妻)

▲内宮アマテル(女神アマテラス、マゴコロタケルを内包?)

 

〜妹心(廣田神社)〜

▲瀬織津姫命(ツクヨミ妃・月桜田毘女命?)

▲ヒルコ(マゴコロアイヒメ?、ヱビス 信仰を内包?)

 

〜ホツマツタヱ28文〜

『また后 ヒロタ(廣田神社)に行きて ワカ姫(ヒルコ)と 共に妹心(ゐこころ) 守るべし 我はトヨケと 背(をせ)を守る 妹背(ゐせ)の道なり』

『御幸の神輿 マナヰ(籠神社奥宮)にて アマテル神は 内つ宮 トヨケは外宮』

※男神アマテルの真名とは斎名ワカヒトを指していると思われる。神道ではよく使用される『眞名井』とは、クニトコタチ夫妻の拠点丹波国の宮下文書表記『田場国真井原から転じた造語であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

天照大御神荒魂を祀る伊勢内宮『荒祭社』、
瀬織津姫命を祀っていた説有。




宮下文書からみた伊勢祭祀の歴史と、妹背関係神比定。

 

宮下文書における伊勢とは。

51代ウガヤフキアエズ・弥真都男王尊は、九州高千穂の宮から国中を巡幸して、精力的に農法を伝授していた。しかし渡来勢力白木人・ナガスネヒコらに急襲され崩御、遺体は伊瀬山田の合野山に埋葬される。第四皇子・日高佐野王が皇位継承権を継ぎ、皇軍を立て直してナガスネヒコ勢力を撃退。そのまま大和国を都にして神武天皇として即位する。おそらくは父・弥真都男(やまとお)王尊の功績を称えて、大和国の語源とした模様。

初代神武〜10代崇神時代の伊瀬はウガヤフキアエズ朝霊廟となっていたが、ホツマツタヱがウガヤフキアエズ朝全51代を欠史にしたため、その存在意義が危うくなっていた。そこで11代垂仁時代、ホツマツタヱ神道大系に則った新たな役割が課せられる。通説では垂仁皇女・倭姫命が霊能力で選定したことになっているが、もともと皇家にとっては記念碑的な聖地であった。宮下文書においては、10代崇神朝に阿祖山太神宮七廟『麻呂山』よりアマテラスが御霊分けされおり、伊勢に祀られているのは確実であろう。ただその思惑は富士山から人々の目を背けさせるためであり、歴史改竄・鎮魂という祭祀テーマも見え隠れしている。

 

で…。宮下文書には妹背という概念は登場しない、ただホツマツタヱの元ネタ本なので何かしらヒントはあるはずだ。

宮下文書から伊勢祭祀の目的を推測すると。まずは歴史・系譜の改竄と鎮魂が目的であり、クニトコタチ・クニサツチ兄弟の四季島統治統一に主眼が置かれている感がある。また古来から男神=太陽と女神=月を役割分担していたが、ホツマツタヱ神代ではアマテルのみが一夫多妻制をとっており、『和つ日月』つまり『日嗣ぎ』の役割にて、日と月を兼任する形態に移行しているのだ。これらは暗に天皇家の一夫多妻制を肯定するものであり、唯一無二の太陽神信仰による封建制度、富士朝由来の男女火水信仰からの脱却、男性優位社会の到来を表しているのかもしれない。

※因みに宮下文書版ウガヤ神皇は、記述上は皇后のみを娶っていたようだ。なぜか大和へ遷都した神武天皇以降側室が急増した。

 

 

 



 

〜宮下文書における妹背神比定?〜

▲豊受大神

宮下文書版クニトコタチ夫妻

ホツマ版トヨケ

※ホツマツタヱ版クニトコタチとトヨケ(豊受大神)とは別神なので注意。

 

▲阿和武男命

宮下文書版クニトコタチ嫡男トヨクムヌ嫡男

諡マゴコロタケル、松島毘女命夫

アメノオシホミミ実父?

ホツマ版男神アマテラス(アマテル)?



▲女神アマテラス

宮下文書版クニサツチ御子イザナギ娘

アメノオシホミミを未婚養子とする。

ホツマ版男神アマテラス(アマテル)を内包?




▲一女・月桜田毘女命

宮下文書版クニサツチ嫡男ウイジニ娘。

ツクヨミ妃、オオヤマツミ母、アマテラス従姉妹。

ホツマにおける瀬織津姫比定?

 

▲九女・松島毘女命

宮下文書版クニサツチ嫡男ウイジニ娘。

マゴコロタケルの妃マゴコロアイヒメ。

ホツマにおけるヒルコ・ワカヒルメ・ワカザクラヒメ・九頭竜神比定???

アメノオシホミミの系譜上の母。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静岡県藤枝市藤枝『若一王子神社』





藤枝市の飽波神社と若一王子神社の関係。

藤枝市『飽波神社』は、瀬織津姫命・蛭子命・アメノオシホミミを主祭神格として祀る非常に稀な神社。318年(仁徳年間6年)創建の志太平野最古の社、延喜式内社であり別名『川関大明神』。戦国時代1560年(永禄3年)武田軍の戦火により焼失したが、江戸期1715年(正徳5年)に再建された。

ここで思い出していただきたいのが粟島神スクナビコナの立ち位置。宮下文書においては尾張・大和・伊勢の地主神となるわけで、飽波神社がまさに伊勢を語らんとしているのが見えてくるわけだ…。




◯『飽波神社』(静岡県藤枝市藤枝)

〜主祭神〜

  • 少彦名命(伊勢地主神)
  • 瀬織津姫命
  • 蛭子命
  • 天忍穂耳命

 

〜ホツマツタヱにおける『妹背の道』〜

▲瀬織津姫命(アメノオシホミミの実母)

▲ヒルコ(アメノオシホミミの養母)

 

~宮下文書における比定神~

▲月桜田毘女命(アメノオシホミミの???)

▲松島毘女命(アメノオシホミミの系譜上の母)

 

 



 

付近の歴史を宮下文書視点で説明すると。

15代応神天皇崩御後に福地川(富士川)を挟んで仁徳天皇軍と大山守皇子軍が対立、その後講和し停戦合意を結んだ。西国天皇勢力の狙いは富士朝神道からの完全脱却であり、以降日本が東西に分断されていた時代に突入する。このとき阿祖山太神宮大宮司家を継いだ大山守皇子が『宮下』を名乗り始め、通説でも『空白の四世紀』と言われており、お互い分離状態を歓迎していた在り様である。東国の古墳文化にも独自性が見られた。後世の全国八幡系神社に応神天皇を祀るのは、この東西分断の気運を再統合させる目的があったと思われる。

藤枝付近は、大山守皇子第五王子土形遠栄彦が遠久見留(遠江)国造を称し、第六王子榛原須留賀彦が須留賀(駿河)国造を称しているので富士朝配下にあった。

ただ遠江一宮小国神社周辺は三輪氏族の本貫地であり、古来から大和国と太いパイプを維持し続けたとみている。高草山麓の式内社で三輪氏族が宮司を継承してきた『三輪神社(神神社)』もその影響力の一つではないかと…。

 

 

 

 

 

 

実は...、もともと飽波神社も静岡県藤枝市岡部町岡部『高草山』に元宮が鎮座していたという説あり。これがなんと…阿祖山太神宮古宮〜富士山〜富士山本宮浅間大社〜静岡浅間神社のレイライン上にドンピシャ。ただ飽波神社は瀬戸川の水神祭祀なので、なんで山の上にあったのかは疑問の声もあるようだ。それもどうやら後述する若一王子神社健御熊命に関係がありそうなのだが…。

 

〜阿祖山太神宮富士山レイライン〜

  • 金華山金山神社(4kmズレ)
  • 那須神社(仁徳時代創建、坂上田村麿伝承)
  • 磯山神社(鹿沼市)
  • 大慈寺(円仁慈覚大師伝承、小野小町墓)
  • 小野寺城跡(小野寺氏)
  • 下野三宮村檜神社(小野寺氏崇敬)
  • 村檜神社旧跡(807年、皆川村小野口より遷座)
  • 佐野厄除け大師
  • 長良神社(ヒルコ合祀、境内に大きな摂社織姫神社)
  • 鬼鎮神社(武蔵嵐山、ウシトラ鬼神信仰)
  • 数馬・九頭竜神社(東京都檜原村600mズレ)
  • 大月市街地
  • 福善寺(三浦寺、太神宮別当1.7kmズレ)
  • 阿祖山太神宮古宮
  • 富士山
  • 山宮浅間神社
  • 富士山本宮浅間大社(ツクヨミ拠点、白玉池)
  • 梶原山公園(梶原景時終焉之地)
  • 静岡浅間神社(駿河総社)
  • 駿府城(小国三嶋レイライン交差点)
  • 丸子富士(蔵王権現神社)
  • 高草山大権現神社(飽波神社元宮説あり)
  • 月夜見神社・八幡神社(藤枝市高洲)
  • 高松神社(遠州の熊野三山、頼朝伝承あり)
  • 池宮神社桜ヶ池(瀬織津姫命、4kmズレ

 

※梶原氏と小野寺氏は熊オッサン推定ご先祖さま(´(ェ)`)。

 



 

 

 

 

 

 

初詣の準備らしいのだが、日の丸出迎えてくれた藤枝。




若一王子神社とは。

飽波神社の次に向かったのが北へ300m『若一王子神社』、晦日前の正月飾りの日の丸が大歓迎してくれた感がある。この若一王子神は太古の昔から人知れずこの国を守ってきたわけで、ちょっと込み上げてくるものがあった。そしてこの神社にホツマ版九頭竜御子アメノホヒが祀られている点で、飽波神社と対になっていることを確信した。



◯『若一王子神社』(静岡県藤枝市藤枝)

〜御祭神〜

  • 夫王子者?(天神、菅原道真公と解釈されている?)
  • 天穂日命(ホツマ九頭竜神の御子)
  • 健御命(天穂日命の御子、タケヒラトリと同神)

 

後730年(天平2年)、菅原道真祖と言われるアメノホヒ系出雲族土師氏が創建。当時729年『長屋王の変』を経て大納言・多治比池守らの薨去から、大官が次々と死去したことで、政情不安が一気に増大したようだ。この神社にはそのような政治的鎮魂祭祀の意味合いがあるのかもしれない。由緒書には菅原道真公を『天神さま』として祀ったと書いてあるが、創建時点で菅原道真公は未だ誕生しておらず。やはり当初は熊野若一王子を祀っていたと考えるのが妥当であろう。

因みに宮下文書における野見宿祢や菅原道真はサルタヒコ子孫となる。出雲の歴史がスリ替えられているようだ…。

 

若一王子大権現社伝記によると、後三年の役(1083年~1087年)の折に源義家が戦勝祈願をしている。松に藤の蔓がかかって花が咲いているのを詠んで、に花咲く枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代を経ん』と和歌を奉納をした。老樹は『千歳の松』と慕われ明治7〜8年頃まで存在して、藤枝の街の語源となったという。

宮下文書における源頼義・義家は八幡信仰拡散の立役者。富士朝をはじめとする東国氏族と太い繋がりを持っており、マゴコロタケル夫妻がいかなる存在かをある程度理解していたハズである。この場合は松=松島毘女命、藤=富士を暗示しているようにも思える。

 




 

 

 

 

ここも…晦日前だが紅葉が見ごろだった。





 

アメノホヒとアメノオシヒ、神狭命と神狭日命の似て非なる理由。

 

そして若一王子神社に、ホツマ版九頭竜御子アメノホヒが祀られている点に注目。

ヒルコ・九頭竜・アメノホヒ・アメノオシヒは宮下文書には登場せず。正確に言うと、アメノホヒとサルタヒコ子孫野見宿禰・菅原道真が同じ神系というのはあり得ない。アメノオシヒが大伴連祖神(祖家)というのもあり得ない。宮下文書を読むと、通説はめちゃくちゃとしか言いようがない。では...なんで混同されているのかを考えねばならないわけだ。ましてや、ホツマツタヱでは両者ともに九頭竜モチコに深く関係している重要人物なわけで、系図が似てくるのも頷けるわけだ。

通説で重視されているのは系譜上の政治的『こじつけ』である。

(´(ェ)`)







▲アメノホヒ=出雲族エタモヒ祖、通説アマテラスとスサノオの八王子神、アメノオシホミミの弟で、タケヒラトリ父神。

ホツマツタヱにおけるアマテルと九頭竜モチコの御子、アメノオシホミミ義兄。瀬織津姫命の祀る六甲山に磐座がある。宮下文書では全く異なり、アメノホヒ子孫とされる野見宿禰や菅原道真はサルタヒコ子孫となるので注意。

アメノホヒとは出雲祭祀に関与してきた富士朝影響力の動向を象徴しているようだ。部分的にサルタヒコ子孫も含まれるが、これは伊勢における豊受大神クニトコタチ(出雲大神宮)の影響力を示しているとみる。またサルタヒコ子孫同族の坂上田村麿が信州出雲を拠点としていた経緯を暗示しているのかもしれない。

 

〜アメノホヒ系図〜

 

天穂日命

武夷鳥命(建比良鳥命)

伊勢津彦命(出雲建子命、櫛玉命)

神狭命

身狭耳命

五十根彦命

美都呂岐命

忍立化多比命

兄多毛比命(武蔵国造)

忍立毛比命

弟武彦命(相武国造)

※三兄弟




△アメノオシヒ=大伴連祖神、古語拾遺や先代旧事本紀系図では、タカミムスビ四世孫・天石門別安国玉主命の御子。別名神狭日命(カンサヒ)だが、ホツマではトヨケの孫カンサヒのさらに御子にあたり、九頭竜モチコにいいように操られ六ハタレ蜂起の原因をひき起こす。つまり日本武尊副将・大伴武日の祖。信州→中国地方へ出雲改竄工作をしてきた祖家(7代孝霊天皇母・押日媛命の出自である蘇我大伴系統)を暗示している気がする。

※ホツマツタヱではクニトコタチとトヨケは別神なので注意。

 

〜アメノオシヒ系図〜

 

安牟須比命

香都知命

天雷命

天石門別安国玉主命天津石門別神社の古名が九頭神社)

天忍日命(神狭日命)

天忍人命

天日咋命

刺田比古命刺田比古神社の古名が九頭神社)

道臣命

味日命

稚日臣命

大日命

角日命

豊日命

武日命(大伴武日)

乎多氐命(大伴武日弟)

 

※事任八幡宮ホームページによると、御祭神の己等乃麻知比売命は忌部祖『玉主命』の娘。これが天石門別安国玉主命を指しているのであれば宮下文書祖家系統に比定できそうだ。奈良県高市郡高取町越智『天津石門別神社』 と、和歌山県和歌山市片岡町『刺田比古神社』の古名・九頭神社で一致する。古屋家家譜註釈によると、天石門別安国玉主命が天手力男神(天大刀辛雄命)と同神であるという…。因みに宮下文書祖家蘇我大伴系統もかつては中臣を称していた。

※※神狭命と神狭日命は似ているが、一応別神なので注意。宮下文書には登場せず、わざと似ているようにも思える。

 

 

ここで思い出していただきたいのが、出雲族武蔵国造兄多毛比命(エタモヒ)。

前記事でもお伝えしてように、北多摩神社誌の東京都府中市小野神社項p31兄武日命(エタモヒ)≒大伴武日(タケヒ)説が成り立つ。さらに人見稲荷神社項p27には、当社は兄武比命の祀られる社であったと明記されている。

だとすれば、アメノホヒとアメノオシヒのシルエットが重なって見えてくるのにお気づきであろう。つまり小野神社とは、九頭竜を祖先と崇めていた武蔵国造が、瀬織津姫を奉祀していた?とも解釈できるのだ...。

 

 

(´(ェ)`)


 

 

 

 

 

 

若一王子神社境内由緒書

 

 

 

健熊御命とはタケヒラトリ?

 

つづいて、御祭神健熊御命とは、タケヒラトリの別名のようだ。

日本書紀曰く、アメノホヒは葦原中国の平定のため高天原から派遣されるも、大国主命に取り込まれて三年経っても帰還しなかった。故にその御子・大背飯三熊大人を遣わした。これが古事記では建比良鳥命(タケヒラトリ)や武日照命らに比定される。

ホツマツタヱ曰く、オホナムチがイズモからツガルに左遷されたあと、後任としてアメノホヒが引き継いだ。御子をオオセイイミクマノという。

結局というのは、タマノオヤ熊野信仰(出雲一宮)を表している気もする。つまり出雲における大国主出雲信仰と熊野信仰の辻褄を合わせる附会の存在なのだろう。御正体として、考えられるのが熊野若一王子かもしれない…。

 

タケヒラトリ=健熊御命の同神?〜

  • 建比良鳥命
  • 天之夷鳥命
  • 建比良鳥命
  • 武日照命
  • 武夷鳥
  • 大背飯三熊大人
  • 健熊御命


※大背飯三熊大人(阿太賀都健御熊命神)は因幡国高草郡鎮座式内社『阿太賀都健御熊命神社』(鳥取県鳥取市御熊)の御祭神で、奇しくも飽波神社の元宮を示す高草山と一致する。

 

▲日本書紀曰く、タケヒラトリは出雲国造。无邪志(武蔵)の国造、上菟上(上総中部)の国造、下菟上(下総東部)の国造、伊自牟(上総東部)の国造、津島県直(対馬)そして遠江国造の祖。つまり宮下文書におけるアメノオシヒ系大伴武日が、東国を監視していたエリアと合致する。

▲ホツマツタヱでは、ヤマトタケル東征に大伴武日(タケヒ)が東国統治していたエリアがサカオリ宮とされている。東国を預かるタケヒが不穏な動きを察知して、朝廷に東征を要請したことになっており、ヤマトタケルが富士山朝敵になることを避ける意図が垣間見える。宮下文書とは時系列がひっくり返っているので注意。

△宮下文書では、ヤマトタケル東征後は『吾嬬惣国』が成立しており、勢力内の国造は宮下家が担っていたハズだ。そもそもこの時代の自治権は殆ど富士朝7代大宮司・福地記太夫命に帰属していたわけで、西国天皇勢力から国造が派遣されることは考えにくい。

 

このように西国天皇勢力は、富士朝を隠すため、出雲所在地の撹乱を促すためにあの手この手で工作しており、アメノホヒとアメノオシヒも附会の神系の可能性がある。だとすれば、エタモヒが大伴武日であっても全くおかしくはないし、タケヒラトリも大伴武日の影響を受けていても驚かない自信がある。アメノホヒ・出雲族・大伴連・サルタヒコ子孫らの各地伝承が、実体もなくバラバラであることも説明がつく。現在認識されている出雲神話がいかにめちゃくちゃであるかがおわかりいただけただろうか?。

※誤解されないように書くとこれらの神社が虚構というわけではない。当然現代までに信仰を残す大神であれば、その御正体は古来から各地に隠されているハズである。とくに菅原道真公を祀る神社は富士朝阿族由来の古代信仰を内包していると思われる。





 

 

 

 

 

 

 

阿祖山太神宮と富士山本宮浅間大社(ツクヨミ拠点白玉池)のライン上にある、
藤枝市『月夜見神社・八幡神社』




 

なぜ藤枝にツクヨミが祀られているのか?

 

藤枝市『鬼岩寺』は726年(神亀3年)行基の開山。平安期には弘法大師空海が当地を苦しめていた鬼を退治した伝承あり、裏山の大岩に封じたという。その裏山の奥地には若王子古墳群があり、3〜7世紀とおもわれる23基の木棺直葬墳と5基石室墳が発掘されている。鬼を封じた巨石や岩穴も残っているという。この鬼岩寺の門前にあるのが月見里(やまなし)神社で周囲に山がなく月が見通せるという意味。東海道藤枝宿西の鬼岩寺門前にあり、鬼岩寺村が形成された室町時代には創建されていたと思われる。

因みに飽波神社も若一王子神社も山を背にしている。



◯『月見里神社』(藤枝市藤枝)

〜御祭神〜

  • 月読命

 

室町時代1388年3代将軍足利義満が富士山遊覧しており、この遊覧に際して当寺にて宿泊している。これは南朝に与していた富士朝への権力示威行為であった。1404年2月2日富士朝陥落、5代将軍足利義持の代であるが、個人的には先代義満の影響力によるものだと見ている。結局というのは阿族祖霊神のことであり、やまなしというのは富士朝陥落により調伏された山の神のことではないのだろうか…?。

 

 

 

宮下文書におけるツクヨミはクニサツチ富士朝の神皇、月桜田毘女命は神后となる予定の人物であった。それが理由は不明ながらツクヨミの頑な意思により、姉アマテラスにその座を譲って逃避行したという。古来より一子相伝の皇位継承権には、兄弟支流によるクーデターの危険性を孕んでおり、継承権を持たない皇兄弟は弾圧される傾向にあった。それがツクヨミが記紀から消されてしまった一番の理由ではないかと思われる。

しかし伊勢神宮を参拝した時にも感じていたわけだが。それぞれ内宮別宮『月讀宮』・外宮別宮『月夜見宮』にはツクヨミがしっかり祀られており、何か特殊な御役があるようにも思える。それはアマテラスと妹背神となってしまった月桜田毘女命を、いまも見守っているのではないかと…。

マゴコロタケル事件とは子宝に恵まれなかった皇家の世継ぎ問題。どんな王国にも想定されうる危機だが、結局このようなハプニングに際しては夫婦・家族の団結が問われることとなる。そこで高天原のアマテラスをはじめとする阿族天神族が知恵を持ち寄って、立場を超えて、国と子孫を思うが故のブレイクスルーを起こした。後世に兄ニニギ・妹コノハナサクヤヒメの兄妹婚として、または四季島統治統合として体現された。これが『妹背の道』の極意ではないかとみている。

しかし歴史改竄と共に、信仰上歪曲された節がある。

宮下文書における祖霊信仰の観点からみれば、いまの伊勢は権力者が作り上げた不自然なものと云わざるをえない。果たしてそれが子孫たちにとって健全なことだろうか?、令和時代にこの国は子孫たちは岐路に立たされていると感じた。妹背の捻じれは解消する必要があると…。

ふと思うところがあって、先述の太神宮→富士山のレイライン上に存在する『月夜見神社・八幡神社』へ向かった。

 

(´(ェ)`)




◯『月夜見神社・八幡神社』(藤枝市高洲)

 

〜月夜見神社〜

  • 月夜見命

〜八幡神社〜

  • 品陀和氣命
  • 天照皇大神
  • 弥都波能売命(大井川鎮護の水神?、大井神社?)

 

 

かぐや姫は月の王朝へ帰還した…。日と月がうまく統合される日がくるのであれば瀬織津姫さまも帰還を望まれていることであろう…。普段から神社巡りでお願い事をすることは殆どないのだが。子供っぽい願い事で恐縮であるが、ツクヨミさまと月桜田毘女命さまが結ばれますように♥とお願いさせていただいた。

m(__)m。




 

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

 

https://x.com/sekihotu

 

 

 

 

www.sekihotu.com

 

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※地図はクラフトマップ使用。

www.craftmap.box-i.net

九頭竜・ヒルコ・ワカサクラヒメは同一神ではないのか?、阿波✕安房あわわ神社レイライン

 

 

もう一つの遠江一宮『事任八幡宮』、この先禁足地。


2025,2,
24

今回は…2018年に奥宮の存在を知りつつも、スケジュールの都合により奥宮を断念した事任八幡宮から始まる。今回2024年12月は本宮山磐座まで参拝させていただきました。

そこからさらに粟ヶ岳の山頂へ、阿波比売(アワヒメ)命を祀る阿波々神社へ足をのばした。

そこで戸隠九頭竜神とヒルコの思わぬ側面を見ることになる。

 

アワワ…(´(ェ)`)

 

 


~目次~

 

 

 

事任八幡宮とは?。

 

事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)の御祭神は己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと)、古くは真知乃神(まちのかみ)、己等乃麻知神社と称された。

静岡神社庁ホームページによると、許当麻知神社(ことまち=願い事を待つ)・事任神社(ことのまま=願い事のままに)というのは小国神社側の古名と一致するのだが…。これは遠江国一宮論社ということだろうか?、両社の関係が気になるところ。

奥宮本宮山・磐座には古代祭祀場跡があり13代成務時代の創建とされる。奇しくもこれはホツマツタヱ神道大系が確立した直後であり、ヤマトタケル東征後に出雲族エタモヒが武蔵国造となった時期と重なる。

807年(大同2年)50代桓武天皇勅命にて、坂上田村麿が本宮山(現在の奥宮磐座)から現在地へ遷座させたという。配祀の八幡神は1062年源頼義東征の折に石清水八幡宮から勧請したとのこと。




◯『事任八幡宮』(静岡県掛川市八坂)

 

〜主祭神〜

  • 己等乃麻知媛命 (興台産霊神の妃、天児屋命の母)

 

〜配神〜

  • 息長帯姫命
  • 誉田別命
  • 玉依比売命 

※三柱で八幡大神。

 

〜五社神社〜

  • 天照大神
  • 八意思兼神(戸隠神?)
  • 大国主命(小国神?)
  • 火乃迦具土神(秋葉神?)
  • 東照大権現(徳川家康)

 

 

御祭神はアメノコヤネ母神という説あり。

宮下文書版アメノコヤネはアメノオシホミミ右臣。ニニギ妃コノハナサクヤヒメが無戸室に三皇子を閉じ込めて富士山火口にて自害した折、無戸室の屋根を破壊して三皇子を救出した。天清住命や加茂山彦命を称したのち天兒屋根命の名を賜り改名した。

右臣武部系統・小守主命と、尾茂太留尊の三女・小菊毘女命の間に生まれ、アメノオシホミミ第二女で、ニニギ妹神である天母岬毘女命を娶った。

つまり興台産霊神=小守主命、己等乃麻知媛命=アメノコヤネ母神であるならば、クニサツチ孫にあたる小菊毘女命に比定されるハズだ。ただ遠久見国に祀る理由がわからない…。

wikipediaアメノコヤネによるとオモイカネとも同一視される傾向があるという。向かって左側の境内社『五社神社』にホツマツタヱ版ヒルコの夫であり、戸隠中社祭神オモイカネが祀られているのも興味深い。

※櫛真智命(くしまちのみこと)とも関係があるかもしれない。櫛真智命は宮下文書には登場しないが、アメノコヤネの別名ともされる。





境内御神木、巨木マニア大歓喜。



大晦日前なのだが紅葉がキレイだった。










粟ヶ岳・阿波々神社の阿波比売神とは?

 

次に路線バスに乗り粟ヶ岳へ移動、事任八幡宮が5km北にある粟ヶ岳『阿波々神社』に関係しているのではないか?というネット情報を得た。

ネット上溢れている情報でソースは不明なのだが、当社御祭神・阿波比売(アワヒメ)命は、事任八幡宮の己等乃麻知媛命の和魂であり、天津羽羽(アマツハハ)神が幸魂なのだという。どうやら阿波々(アハハ→アワワ?)神社の語源の可能性もありそうかなと...。もともと粟ヶ岳周辺には夫婦滝・夫滝・女滝・葉滝があり、松葉神社の御祭神がヒルコ。男女の結びつきに見立てた水神祭祀があったと思われる。

宮下文書的視点で阿波神とえば、まずクニトコタチ男系孫・阿波武男命(マゴコロタケル)だろう。そしてクニサツチ女系孫・松島毘女命(マゴコロアイヒメ)が、阿波比売命に比定されるのではないかと推測。つまり当地はマゴコロアイヒメ≒ヒルコ(ワカヒルメ)?の聖地ではないかと...。

(´(ェ)`)

 

 

◯式内社『阿波々(あわわ)神社』(静岡県掛川市初馬)

〜御祭神〜

  • 阿波比売命



△己等乃麻知比売神=荒魂

▲阿波比売神=和魂

▲天津羽羽神=幸魂

※いずれも宮下文書記載なし。

 

※境内にはスサノオ夫妻を祀る『八重垣神社』あり、ここでも阿波比売命とスサノオとのコンビネーションが強調されている感あり。



◯『松葉神社』(静岡県掛川市倉真)

〜御祭神〜

  • 素佐之男尊(津島勧請)
  • 蛭子命(西宮神?)

※創建不詳、社伝では大宝年間(701〜704年)に津島神社から勧請されたとのこと。宮下文書三輪本現代訳p93『津島午頭天皇神社(日本総社)』は、33代ウガヤフキアエズ朝時代に信州出雲から派生されたスサノオを祀る宮。信州出雲谷が陰大社であり、津島神社はその陽総社という位置づけになる。つまりこの地の祭祀テーマには善悪二元性が見え隠れしている(後述)。

鳥居神額には西宮八幡宮の表記もあり、後からホツマ版西宮=ヒルコ信仰が合祀された可能性もある。





〜戸隠事任八幡宮レイライン〜

  • 戸隠山
  • 戸隠九頭竜社(九頭竜神、600mズレ)
  • 鬼女紅葉の岩屋
  • 臥雲院
  • 健御名方富命彦神別神社(式内社論社)
  • 麻績神明宮(伊勢御厨、国指定重要文化財)
  • 高谷神社(東筑摩郡・瀬織津姫命?)
  • 御射神社のこっぱ奥宮(御射春宮秋宮の奥宮)
  • 入山辺大和合神社(古社、御柱祭)
  • 諏訪湖
  • 高遠城址
  • 分杭峠(ゼロ磁場パワースポット?)
  • 中央構造線沿い
  • 信濃宮神社(南朝後醍醐天皇第八王子宗良親王の終焉地)
  • 粟ヶ岳・阿波々神社(アワヒメ)
  • 事任八幡宮・本宮山磐座
  • 大頭竜神社(菊川市加茂、出雲龍神)
  • 應聲教院(円仁開基、桜ヶ池奥の院)



〜戸隠池宮神社レイライン〜

  • 戸隠山
  • 諏訪大社春宮
  • 諏訪湖
  • 諏訪善光寺(元善光寺→善光寺本尊中継地)
  • 守屋神社奥宮(1.2kmズレ)
  • 御所平(南朝宗良親王居住地)
  • 桜ヶ池・池宮神社(敏達天皇時代創建、瀬織津姫命)



 

 



 

 

結局、事任八幡宮本宮山磐座や阿波々神社粟ヶ岳磐座は、東経138.0度線上の戸隠山から諏訪湖を挟んでレイライン上ほぼ南直下にある。上2つのレイラインを合体させて太いラインと見なすことも出来そうだが…。

レイライン上の應聲教院には龍神伝承があり。855年慈覚上人・円仁創建、池宮神社にある桜ヶ池奥の院とされる。1169年この池に龍身入定した皇円(肥後阿闍梨)の菩提を弟子である法然が弔ったとされ、現在池宮神社には瀬織津姫命が祀られており、桜ヶ池主神には皇円阿闍梨大龍神を祀っている。一方で信州善光寺本覚院『阿闍梨池』は、諏訪湖を経由して池宮神社桜ヶ池へと通じているという伝承あり。これは先述した戸隠山→諏訪湖→桜ヶ池ラインを象徴しているのではないだろうか?と…。

そして菊川市加茂の大頭竜神社にも注目、大物主大神・大山咋大神・出雲龍神の三柱を祀る。これも戸隠=オリジナル出雲を暗示しているのであれば辻褄が合う。1574年高天神城落城の折に、武田勝頼軍が大龍院とともに当社を焼き討ちしており記録等が焼失。口伝によると792年(延暦12年)に勧請、1734年(享保19年)正一位を賜っている。

つまり龍神信仰の聖地であり、戸隠山と武蔵一宮小野神社へのレイラインと同様。九頭竜神と瀬織津姫命を結ぶラインともいえそうだ。

 

(´(ェ)`)

 

 

粟ヶ岳磐座群。



岩々から巨木が生えて見える、苔むす巨石マニア大歓喜。






 

 

 

阿波✕安房、アワワと妹背のレイライン。

 

粟ヶ岳は東斜面全体が茶畑となっており電波塔?に占拠されているが、古代からの磐座群もあり。富士山や駿河湾、島田市焼津市の町並みが一望できる。東を望むと大井川を挟んでかつての駿河国となる。

ここで思い出していただきたいのが静岡県藤枝市藤枝『飽波神社』。御祭神が粟島神スクナビコナなのだが…、アメノオシホミミと瀬織津姫命とヒルコ(ワカヒルメ)も祀られている。加えてすぐ300m北にマゴコロタケルに関係しそうな若一王子神社・若王子古墳群が存在する。700m西には鬼岩寺があり、726年行基開基、平安期に空海が当地の鬼を大岩に閉じ込めたという伝承がある。門前市にはツクヨミを祀る『月見里神社』があり、月見里(やまなし)と読むという。

伊勢神宮の語源とも言われる妹背を体現したような、全国的にも非常に稀な祭祀エリアだと思う。

 

(´(ェ)`)




◯『飽波神社』(静岡県藤枝市藤枝)

〜御祭神〜

  • 少彦名命(粟島信仰?)
  • 瀬織津姫命
  • 蛭子命
  • 天忍穂耳命

 

◯『若一王子神社』(300m北)

  • 夫王子者?
  • 天穂日命(アマテルとホツマ版九頭竜の御子、その御子が武日照命=建比良鳥命)
  • 健御熊命(天穂日命御子)

 

 

◯『月見里(やまなし)神社』(700m西)

〜御祭神〜

  • 月読命




〜アワワ妹背レイライン〜

  • 鴨川富士
  • 鴨川・加茂神社
  • 富山・里見八犬伝終焉の地
  • 伏姫籠穴

 

  • 伊東宇佐美・熊野神社
  • 福知山修善寺(807年空海開基)
  • 源範頼の墓
  • 那閉神社(式内社、鍋嶋大明神?)
  • 焼津神社(式内社、日本武尊、大伴武日
  • 飽波神社(瀬織津姫、ヒルコ、アメノオシホミミ)
  • 月見里神社(ツクヨミ)
  • 阿波々神社(アワヒメ)
  • 粟ヶ岳
  • 松葉神社(ヒルコ)
  • 尾崎宮雨櫻神社(上社)
  • 太田郷一藤(武藤少弐氏領)
  • 粟倉城跡(武藤少弐氏領)
  • 粟倉神社(遠江国小国一宮元摂社)
  • 津島神社(曾許乃御立神社摂社)
  • 太刀山愛宕神社奥宮(式内社、磐座)
  • 白山西宮神社
  • 船形山普門寺(豊橋市、行基開基)
  • 松阪神社(合祀が非常に多い)

 

  • 談山神社
  • キトラ古墳
  • 葛城一言主神社(幼武尊?)
  • 檜尾山観心寺
  • 楠木正成首塚
  • 由良湊神社(速開都姫命)
  • 鳴門の渦潮(日月神示記載)
  • 八幡神社(愛媛県新居浜、石清水八幡宮別宮)

 

  • 粟島神社
  • 豊前善光寺(空也開基)
  • 英彦山神宮(アメノオシホミミ)
  • 高住神社(豊日別命?)
  • 荷原 美奈宜神社(式内社)
  • 稲吉老松神社(牽牛社、七夕伝承)
  • 七夕神社(媛社神社、七夕伝承)
  • 大中臣神社
  • 鎮西山城跡(源為朝居城)
  • 吉野ケ里遺跡北側
  • 仁比山神社(円仁伝承)
  • 土器山八天神社
  • 白角折神社(櫛田三所大明神、ヤマトタケル伝承)
  • 金立神社(中宮、徐福伝承)
  • 鍋島家春日御墓所(武藤少弐氏末裔)
  • 肥前一宮與止日女神社(元寇神風伝承、武藤少弐氏)
  • 男女神社
  • 肥前三宮天山神社(岩蔵下社、鍋島藩)
  • 山田神社(大正まで瀬織津姫命合祀?)

 

 

 

 

※これも前記事でご紹介したレイラインと重複しているかもしれない。

 

 

飽波神社・若一王子神社の詳細は次回ご紹介するとして…。

粟ヶ岳展望台から伊豆半島方面をぼんやり眺めていたのだが…。素朴な疑問としてこの方角だと飽波神社と阿波ヶ神社って、阿波国と安房国に繋がるのではないのかと思うようになった。インスピレーションを得てとぼとぼ下山、帰宅後さっそくGoogleマップを確認してみた。

やはりというか…阿波〜安房へのレイラインが形成されているのだ。ライン上には瀬織津姫の飽波神社と、アメノオシホミミの聖地・英彦山神宮、日月神示で有名な鳴門の渦潮も絡んでいる。しかも前記事でご紹介した熊オッサン推定ご先祖様『武藤少弐氏』の関係地で、なぜか遠江武藤氏と肥前少弐氏を結ぶラインになっている(苦笑)。

肝心の阿波々神社というのは、先述した戸隠奥社〜大頭龍神社ラインのクロスポイントとなっているようだ。


シンクロニシティやね(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

 

この日、日暈(ハロ現象)が観測された。

 

皇祖アメノオシホミミの不思議な養育環境。



ホツマツタヱ7文をおさらいすると…。

スサノオは兄神アマテルの北局の后であった九頭竜神モチコと浮気した。内宮の座を奪われた彼女に同情して、瀬織津姫ホノコを『斬ってやる』とまで豪語していたという。

それを偶然聞いてしまったワカサクラ姫ハナコは、当然姉ホノコへ密告した。

これに激怒したスサノオは、斎衣殿で機織りをしていたハナコに太駒(大馬)を投げ込んで殺害してしまった。このときホノコはスサノオの千座を超える咎(とが)を赦すとともに、『活モノ(ウケモノ)に祈ってハナコを蘇生させた』と意味不明な言葉を述べている。

こうして九頭竜モチコは『宇佐の宮』へ配流され、御子アメノホヒはアマテルの元に残された。故に瀬織津姫がアメノホヒを養育しなければならなかった道理は分かる。ただなんで彼女の御子アメノオシホミミを、義姉であるワカ姫ヒルコに託す必要があったのか?。それが最終的には因果応報のように、九頭竜モチコの戸隠山封印に繋がるのだ。

 

 

〜ホツマの不思議な子育て〜

①男神アマテルと九頭竜モチコがアメノホヒを生み、瀬織津姫ホノコが育てる。

②アマテルと瀬織津姫ホノコがアメノオシホミミを生み、ヒルコが育てる。

③オモイカネとヒルコが、タヂカラオ・ウワハル・シタハルを生む。

④タヂカラオが九頭竜モチコを説得し、封印する。

 

 

ここで注目すべきはその御子神たちの養育環境である。

縄文集落が大きな家族の価値観を持っていたことは知られているが…。瀬織津姫ホノコは九頭竜モチコの御子アメノホヒを養育?していたようで、彼女の生んだオシホミミはヒルコが育てている。なんでこんなことをしているんだろう?宮下文書神代にはこんな複雑な家庭環境は存在せず、なにかトリックがあるなと睨んだ。

宮下文書版アメノオシホミミの系譜上の実母は、ウイジニ九女松島毘女命(マゴコロアイヒメ)となる。ただそもそもクニトコタチ男系が子宝に恵まれなかったことに起因しており、皇室のデリケートな問題上、明言を避けている節あり。男子誕生後『御夫妻は、共に俄かになくられた』とだけ淡々と述べられている。

あくまで可能性を言えば、遺伝子的に一番近い姉・月桜田毘女命による代理出産の可能性は否定できないだろう…、それを咎めてマゴコロ夫婦が心中した可能性もある。残されたオシホミミはアマテラスの養子に迎えられており、周辺環境が複雑化するのも頷ける。ホツマツタヱのドタバタ劇は、宮下文書版オシホミミの過酷な成長環境を暗に示しているのではないかと妄想する。

気になるのは宮下文書版オシホミミ夫妻も、后神タクハタチヂヒメと同日崩御しているのだ。これが敬愛する亡き父母の後追いをしていたのか?偶然の一致なのか?は不明。ただ縄文人たちは男女の繋がりを火と水に擬えて、現代人が想像もつかないほどの尊いものとして捉えていた感がある。

 

 

△マゴコロタケル

阿和武男命、アメノオシホミミの実父。ホツマ版アマテラス(男神アマテル、ワカヒト)?ワクムスビ(ワカムスビ)?、宮八幡?、熊野一王子?、七夕伝承彦星?。日月神示ヒツクの神?

 

△マゴコロアイヒメ

女松島毘女命、月桜田毘女の妹、皇祖アメノオシホミミ実母?、ホツマ版ヒルコ(ワカヒルメ、ワカヒメ)、瀬織津姫妹ワカザクラヒメ、玉津島神?、景勝地松島?。棚機姫命(七夕伝承織姫)?。日月神示ヒツクの神?。

※ホツマ版ヒルコは、瀬織津姫の生んだアメノオシホミミを養育する。

 

▲月桜田毘女命

ツクヨミ妃、正哉オオヤマツミ母、松島毘女命の姉。瀬織津姫?、ホツマ版正哉アメノオシホミミの実母、月に帰るかぐや姫?。

オオゲツヒメ?、宗像三女タギツメ?

※ホツマ版瀬織津姫は、アマテラスの内宮、皇祖アメノオシホミミを生む。

 

 

 

 

※系図の補足

もともと兄クニトコタチと弟クニサツチが全国を二分して四季島統治をしていた。しかしクニトコタチの家系が子宝に恵まれないために、富士朝アマテラスのもとで四季島統治を再編して神皇システムを統合する流れとなる。

この直接的きっかけとなったのが阿波国に生まれ、安房国へ移住したマゴコロタケルの後継者問題であった。

 

 

 


※※系図の補足

彼らの子孫である10代崇神~12代景行天皇勢力が中央集権制を促進、複雑化した旧勢力の既得権益を整理統合するために正史を簡略化。このとき神系譜を大幅にリストラ修正した。ただヒルコ・ワカヒルメ・瀬織津姫・九頭竜神ら多くの神々が登場したのもこの時期とみられる。これがホツマツタヱ神道体系であり、世間で言われている出雲地祇系つまり国津神の『国譲り』のことである。






 

 

 

 

 

 

参拝後...なんか晴れた(苦笑)

 

九頭竜神・ヒルコ・ワカサクラヒメ...同一神ではないのか?。

 

...何言っちゃってるんだコイツ?とお思いだろうが。割とマジである。

ここまで読むとみなさんもそろそろお気づきではないかと。ホツマツタヱにおけるヒルコ・ワカサクラヒメ・九頭竜神がダブっているということを...。もっというと宮下文書版九女松島毘女命(マゴコロアイヒメ)ではないかと。

 

九頭竜神≒ヒルコ≒ワカサクラ姫≒マゴコロアイヒメ???

 

実はこのシンクロニシティに気づいたのが、辰年2024年の夏頃…。年末12月に数馬九頭竜神社と正一位岩走神社を参拝したときにやっぱりなと実感した。戸隠神社九頭竜神はタヂカラオに見張られおり、小野神社瀬織津姫命はシタハルに見張られている。

共通項はどちらもホツマ版オモイカネ・ヒルコ家族神。これを宮下文書視点で解析すれば...オモイカネは神武時代神官?、タヂカラオは神代信州出雲、ウワハルは神武時代ウマシマジ比定?なので時代はバラバラ。彼らが家族神であるわけがない。ただ宮下文書版祖家(蘇我大伴系統)という共通項が浮き彫りとなるのだ。

 

◯『九頭龍神社』(東京都西多摩郡檜原村数馬)

~御祭神~

  • 九頭龍大神
  • 天手力男命(戸隠勧請)

◯『正一位岩走神社』(東京都あきる野市伊奈

〜御祭神〜

  • 手力男命(戸隠勧請)
  • 稚日女尊
  • 棚機姫命

※数馬九頭龍神社の秋川18km下流域にある。信濃國伊那郡から武蔵国への移住者たちが創建。伊那郡では毎年8月7日(旧暦7月7日ころ)桜井片倉天伯社で瀬織津姫命と棚機姫命を結ぶ七夕伝承『さんよりこより』がある。

〈奥多摩めぐり〉2024年辰年、九頭竜神にはじまり九頭竜神に終わる一年だった。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 

※戸隠〜善光寺〜浅間山〜武甲山(秩父)〜小野神社にレイラインを形成している。

瀬織津姫と九頭竜神を繋ぐ?。オモイカネ兄弟の天表春命・天下春命レイライン。 - セキホツ熊の謎を追え!

 

 

 

 

ヤマトタケルはなんで…

・氷川神社にスサノオを祀ったのか?(ホツマ)

・月桜田毘女命と松島毘女命の故郷?の新治国桜川へいったのか?(宮下文書)

・科野国で『坂の神』を調伏させたのか?(古事記)

・副将大伴武日を高天原に残留させ、東国監視をさせたのか?(宮下文書)

 

12代景行天皇の狙いは縄文哲学である言向和平を封じ、善と悪の二元性世界を促進させることであった。刑罰を科すシステムにより、権力者による中央集権統治を確固たるものにしようとした。それ故その御子ヤマトタケルも、歴史改竄の咎(とが)を信州出雲ごと隠す必要があったのだ。

さらに九頭竜モチコの部下、カンサヒ御子アメノオシヒ末裔を称する大伴氏系による九頭竜神信仰の痕跡…。大伴氏系本貫地といわれる紀伊国には玉津島神ワカヒルメが祀られ、式内社刺田比古神社は『九頭大明神』を称していた。副将大伴武日は出雲族出雲臣エタモヒに化けて武蔵国各地にそのカラクリをのこしていた…。それが現在までに氷川神社・鷲宮神社・秩父神社・出雲伊波比神社・小野神社の役割とされて来たのである。

ここに戸隠九頭竜神と玉津島神ヒルコ(ワカヒルメ)、祖家大伴系統のシンクロニシティが浮き彫りとなるわけだ。

※xでも述べたように出雲族出雲臣兄多毛比命(エタモヒ)大伴武日ではないかと思われる。北多摩神社誌p31府中市小野神社項によると、視二井諸忍野神狭命十世兄武日命御祖神として勧請したとのこと。同p27人見稲荷神社項によると、もともとは武蔵国造兄武比命の祀られた社とのこと。両社に現在共通している御祭神が小野大神・瀬織津姫命と天下春命である。また『古屋家家譜』によると大伴武日には乎多氐命(ヲタテ)というがいる。

 

 

 

 

 

おわりに。

 

1980年代大映テレビ制作の『ヤヌスの鏡』という二元性ドラマがあった。九頭竜神が悪神とすると、ヒルコが善神…。しかし実はそれが鏡写しにダブついて、角度によっては九女松島毘女命という同一性が浮き彫りとなるかたちだ。

そもそも信州出雲は言向和平のシンボルのハズであった。しかし権力者にとっては旧勢力や罪人たちを赦すこと自体、統治上都合の悪ことであった。支配構造上でいえば善と悪は明白でなければならず、時としては悪を善だと言い切る勇気を必要とした。こうして権力者たちの善の側面が因果応報のように、悪の側面を封じ込めた。

それが咎(とが)隠しなのではないかと。

生れてこのかた控えめといわれる???熊オッサンが、なんでこんな大胆な発想に至るのか?。そもそも彼女たちはホツマツタヱ以降誕生した神々であり、宮下文書上には存在しないのだ。言い換えると宮下文書を正史とおくならば、ニギハヤヒ・瀬織津姫・ヒルコ(ワカヒルメ)・ククリヒメ・宗像三女神・九頭竜神・アメノホヒは、その系図や名前を剥奪された神々である。そして宮下文書には必ず彼女たちの御正体が埋もれているハズだと。

だとすれば現代の常識に囚われては歴史解明はムリだろう、頭を切り替えて根底から考え直す必要性があった。いつまでも記紀に固執して堂々巡りをしている場合ではない。正直に九頭竜=小幡毘女命(ウサミ妃祖家系統神)かな?と思っていた時期もありました。武藤少弐氏が崇敬した與止日女命(川上さま)も再考察が必要かもしれない。

 

m(_ _)m

 

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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<緊急続報>埼玉県八潮市中央一丁目交差点陥没事故、上潮とレイラインの交差点か?。

 

 

 

『氷川女體神社』、なんとなく氷川から歩いた。
宮下文書版ミホツヒメは、信州出雲スサノオ娘であり出雲大神と称す。




2025,2,11

当ブログ6周年の建国記念日。毎年、建国記念日と夏至の日にフリーテーマでお話ししております(去年からという説もあり?)。今回はとあるレイラインで、ちょっと気になることが発覚したのでご報告。

2025年1月28日、埼玉県八潮市中央一丁目交差点で、道路が陥没事故が発生した件ですが…。今月に入ってもなかなか復旧活動拠点が進まず、大きなニュースになっております。陰謀論界隈では極秘に掘られた◯◯が露出したなんてお話もあるようです。ま…今回はあくまでマップ上の真実のみお話します。

 

本日のネタ、とくに統一性がありません(´(ェ)`)



~目次~

 






八潮はレイラインの交差点だった?

 

結論から言うと…。

この陥没事故ポイント…、以前ご紹介した氷川3社レイライン上にドンピシャとなる。さらに富士山高千穂峰レイラインクロスポイント八潮立潮止小学校に1キロ程と接近している。



八潮市というのは、かつての大河である元荒川や古利根川が注ぎ込まれた中川に接し、地盤も弱く古来から水害が多かった。八潮市立潮止小学校の『潮止』とはかつて中川で起きた東京湾の上潮時に、逆流した潮が付近まで到達したことを意味している。言い換えると2つのレイラインの接点とは東京湾の潮止なのだ。

氷川三社は、戸隠と本州重心点に近い角度で対面しているためレイラインの斜角が近い。どちらにも掛かっている可能性あり。中山神社〜氷川女體神社付近にて緩やかに交差する。浅間山浅間隠山をそれぞれ貫いている点も興味深い。




〜本州重心点レイライン〜

 

  • 高瀬宮(祭祀遺跡)
  • 高爪神社
  • 瀬戸川神社(オオヤマツミ、坂上田村麿伝承)
  • 本州重心点(日本のへそ、瀬戸川神社旧跡)
  • 稲丘神社里宮?(小川村飯綱山、坂上田村麿伝承)
  • 伊折虫倉神社(山姥伝承)
  • 長野オリンピックスタジアム
  • 象山神社(松代大本営、戦中首都移転計画)
  • 皆神山岩戸神社
  • 浅間山
  • 軽井沢ビル・ゲ◯◯の別荘(諸説あり)
  • 浅間山
  • 碓氷峠(ヤマトタケル伝承)
  • 妙義神社(ヤマトタケル伝承)
  • 上野一宮貫前神社
  • 武蔵五宮金鑚神社奥宮(スサノオ)
  • 波羅伊門神社(瀬織津姫命)
  • 波羅比門神社(瀬織津姫命)
  • 鬼鎮神社(畠山重忠の鬼門除け)
  • 武蔵三宮氷川神社(武蔵一宮比定)
  • 中山神社(境内社アラハバキ神?)
  • 氷川女體神社(武蔵一宮比定)
  • 八潮市中央一丁目交差点(陥没事故現場)

※多少ズレあり。

 

 

 

 

〜戸隠氷川レイライン〜

 

  • 戸隠山戸隠奥社
  • 戸隠奥社参道沿い
  • 浅間隠山
  • 東石清水八幡神社(頼義・義家東征の関係)
  • 武蔵三宮氷川神社(武蔵一宮比定)
  • 中山神社(境内社アラハバキ神?)
  • 氷川女體神社(武蔵一宮比定)
  • 松戸神社(ヤマトタケル伝承)
  • 小山浅間神社(八幡太郎義家公)
  • 旧徳川家『戸定邸』

※多少ズレあり。




特筆すべきは埼玉県嵐山町『鬼鎮神社』。畠山重忠居館菅谷館の艮(うしとら)の方角であり、もともと鬼門除けをしていたことに起源を持つ。御祭神は衝立船戸大神、節分祭での掛け声は『福は内、鬼は内、悪魔外』。つまり鬼=悪と見なしていなかった。通説この畠山氏は秩父平氏として秩父吉田郷を拠点としており、富士朝関係氏族ではないかとみている。

〈日月神示✕宮下文書〉2月2日節分の豆まきに何があったのか?。 - セキホツ熊の謎を追え!

因みに松戸神社と小山浅間神社は去年夏頃に参拝したばかりなのでビックリしている…。千葉県松戸市の語源は、松=待つ。ヤマトタケル東征の折、日本武尊と副将大伴武日が待ち合わせをしたからという。

(´(ェ)`)



また当レイライン上で、DS側の不可解な動きが見られるのも興味深い。長野オリンピックスタジアムとか、軽井沢ビル◯◯◯さんの関連施設?や。神がDS側を見張るために利用させているのか?、それともDS側が人々の目を逸らさせるために活用しているのか?。

日月神示では神々がイシヤなる闇の勢力を見張っているような記述もあり、気になるところではある。

 

(´(ェ)`)



長野県上水内郡小川村高府『本州重心点』
写真中央、赤白のポール地点らしいが...行く勇気はなかった。

 

 

長野県上水内郡小川村瀬戸川、法地という集落『瀬戸川神社』
なんと...もともと重心点にあったという。

 

 

※宮下文書三輪本現代訳p196によると、阿祖山太神宮神官家系・サルタヒコ子孫の農作及び祭典副司長の宮田麿が、忍壁親王の副司に抜擢され蝦夷征伐にて大活躍した。その功績により科野国高井・水内二郡を賜り、長野原吉田岡の坂上の館にて『坂之上』を称した(旧信州出雲神領?)。771年(宝亀二年)北越と西海?の討伐の功績で、陸奥三十四郡を賜り苅田郡苅田(宮城県刈田郡蔵王町付近)に拠点を移して坂上苅田麿を称した。その御子が田村麿であり、長野県鬼無里や安曇野に残る田村麿伝承を裏付けるものである。

因みに通説坂上氏は、渡来系氏族・東漢氏とされている。

 








 

 

氷川神社と信州出雲祭祀?

 

氷川神社は現在実質の武蔵一宮、氷川女體神社もかつては一宮と称していた。氷川神社・中山神社・氷川女體神社を『氷川三社』と呼ぶことがあり、これらが北西の方角へ並んでいることは知られている。

縄文時代の縄文海進ではこの地域は、北関東へ向けて大河が迫っており、そのすぐ畔にあったと思われる。この周辺は見沼と呼ばれており古代から存在していた。宮下文書版神武時代、武佐志国『日加和神社、摂社四社、末社十二社』が確認できる。江戸中期の井沢弥惣兵衛為永らによる大規模干拓事業が行われるまでは大きな湿地帯であった。下野国寒川郷(栃木県小山市寒川周辺)のように、水神祭祀がメインであった可能性もあるだろう。

 

ホツマツタヱ39文によると、12代景行年間にスサノオ転生を称するヤマトタケルにより創建。宮下文書とホツマツタヱを組み合わせて考えると…、宮下文書版信州出雲スサノオを武蔵国へ遷座させた上で、ホツマ版スサノオの浮気相手・九頭竜神モチコを戸隠に封じ込めた経緯が浮き彫りとなる。すなわちホツマツタヱ神道大系に沿った、歴史改竄プロジェクトが見え隠れしている。10代崇神天皇以降歴史改竄の本当の目的、咎(とが)隠す=トガクシという語源があるとみている。

 

〜初代无邪志国造エタモヒの痕跡〜

▲氷川神社(エタモヒの氏神)

▲大國魂神社(境外社坪宮の御祭神)

▲人見稲荷神社(エタモヒの祭祀場?、現在瀬織津姫とシタハルを祀る)



そして13代成務時代の出雲からやって来たといわれる武蔵国出雲族エタモヒは、この2つのレイラインの神社に深く関わっている。当ブログでは、彼らは中国地方から来たのではなく、むしろ信州出雲祭祀に深い結びつきがあったとみている。

 

宮下文書版スサノオは信州出雲戸隠の地主神、ホツマ版シタハルは現在の戸隠神社御祭神オモイカネファミリーの一員。そう考えると、同じ武蔵一宮である氷川神社スサノオ、小野神社シタハル、武蔵四宮秩父神社オモイカネ、信州戸隠神社オモイカネファミリー。つまり信州出雲に対して、武蔵国も似た祭祀陣営を張り巡らせていたのかもしれない。



〜ホツマ版オモイカネファミリー〜

 

▲父神オモイカネ(戸隠中社・秩父)

△母神ワカヒルメ(ヒルコ)

▲タヂカラオ(戸隠奥社)

▲ウワハル(戸隠宝光社)

▲シタハル(小野・かつての秩父?)

 

※宮下文書におけるオモイカネは神武時代の宮中祭祀トップ?。ウワハル=祖家ウマシマジのこと?。シタハルは不明。タヂカラオは稲田毘女命の父、スサノオの義父。つまり宮下文書視点では家族神であるわけがなく、通説の戸隠地主神・九頭竜神のお目付け役とみている。ラインナップから推測するに、やはり祖家系(蘇我・大伴・忌部?)と関わりが深いようだ。

※※因みに人見稲荷神社由緒書ではエタモヒ(兄多毛比命)=武比命と表記されている。甲斐一宮浅間神社社家の古屋家家譜によると、大伴武日には乎多氐命というがいたようだが…。宮下文書版大伴武日はヤマトタケル副将であり、東征後は富士高天原にて東国監視を担った人物。大伴系本貫地紀伊国(諸説あり)では九頭竜信仰が多い。

 

 

いずれにせよ信州出雲『戸隠』解明には、氷川・小野・秩父の広域の観点が必要。前記事でご紹介したように、能登見附島〜戸隠山〜善光寺〜浅間山〜武甲山(秩父総社神奈備山)〜小野神社〜鴨川弁天島はレイラインで結ばれる。その中でも武蔵国出雲族エタモヒが大きなヒントとなりそうだ。

調査中(´(ェ)`)







 

 

 






伊豆国詣

お話は変わりますが。

土日に三嶋大社と伊豆山神社を参拝してきました。熊オッサンにとって小野神社・三嶋大社・伊豆山神社は特別な意味を持つが、最近これらがレイラインで結ばれていることに気がついた。

ええええええええええええそういう事だったのか!

なんか...三女神に踊らされていた感あり(´(ェ)`)

 

今思えば…はじめから小野大神、三嶋神カモサワヒメ、伊豆山神イワナガヒメに導かれていた気もする(苦笑)。そして偶然にも両親がつい最近まで20年間伊東に住んでいたこともあり、伊東や三島、熱海とも縁が深い源頼朝公には親近感がある。

 

武藤資頼(すけより)は頼朝が伊豆国へ配流された1160年(永暦元年)生まれ。伊東祐親娘・八重姫と頼朝との間に生まれた千鶴丸が生きていれば、非常に近い年齢となる。名前も伊東祐親(すけちか)と頼朝(よりとも)を彷彿とさせ、家人として可愛がられた可能性あり。通説では祐親と資頼は頼朝の敵方とされ、このとき三浦義澄に保護されていた時期が重なっている。

頼朝死後は、2代将軍頼家の元服式典にて有職故実の指導をした。都の貴族から一ノ郎党、または鎌倉ノ本体ノ武士と称された、頼朝からの信頼も厚い梶原景時の娘を娶った。そして異例の大出世?をして太宰少弐『少弐氏』となったわけだ。こんな偶然続くのかなと…。

 

こんな事言うと読者の方々に図々しい奴と怒られそうだが。もしかして万が一…と思ってしまうことがある。熊オッサンのご先祖様は不明であるが、周辺で起こった富士山と武蔵国と伊豆国でのシンクロニシティを思えば…尚更。

確実に言えることは北条得宗家と足利将軍家は、頼朝派と富士朝派を隠蔽する為なら何でもした。前記事で述べたように1375年少弐冬資が今川了俊に謀殺された折、島津氏久が今川側に猛抗議をしている。頼朝は妾が多かったことでも有名で、九州に下向させられた島津忠久や大友能直にはそれぞれ頼朝落胤説がある。

その強豪の中で武藤少弐氏が、なぜ鎮西探題四奉行筆頭に立つことができたのだろうかと。対元寇氏族少弐氏宗家は滅亡してしまったが…子孫は敗れても敗れても復活する不思議な魅力がある。



(´(ェ)`)。








 

小国神社前記事の追記。

 

遠江一宮小国神社のレイラインについてもう一本忘れていました、前記事に追記します。

 

〜小国太神宮レイライン〜

 

  • 遠江一宮小国神社
  • 大洞院
  • 新屋山神社
  • 阿祖山太神宮古宮跡
  • 富士宮白糸の滝(熊野神社・瀬織津姫命)
  • 金子十郎家忠館跡(入間市金子、推定宮下氏族)
  • 川越氷川神社(太田道灌伝承)
  • 喜多院
  • 大国玉神社(1kmズレ、大国主命)
  • 桜川磯部稲村神社(1kmズレ、瀬織津姫命)
  • 月山寺
  • 鴨大神御子神主玉神社(1.5kmズレ)
  • 鏡ヶ池(桜川源流)
  • 御岩神社
  • 御岩山(縄文期の祭祀遺跡)
  • 高萩八幡宮(頼義・義家東征の関係)



前記事でも述べたように徳川家康も三嶋神カモサワヒメを崇敬していた節あり。

1608年(慶長13年)家康は早々に秀忠に将軍職を譲り、小国神社と三嶋大社のライン上『駿府城』にて隠居生活をしていた。ただもともとは艮(ウシトラ)の方角3kmに三嶋大社がある柿田川遊水・泉頭城に隠居城を構える計画があったという

奇しくもこれが三嶋大社〜箱根元宮〜大山〜小野神社〜桜川磯部稲村神社へのレイラインとなっており、上記の二本の氷川三社レイラインのクロスポイントにて、3線目としてクロスする。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

 

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〈日月神示✕宮下文書〉2月2日節分の豆まきに何があったのか?。

 

 

山梨県富士吉田市向原『太神社』

宮下文書太神宮七廟『麻呂山』比定、つまり元伊勢と思われる。


2025,2,2

休むはずだったんですけど…。今年は2月2日が節分というニュースをみて…なにか因縁深いものを感じてしまう。

あいにくの雨なので、ついついパソコンに向かって記事を書いてしまいました。

(´(ェ)`)

 

~目次~

 



 

2月2日に何があったのか?。

 

宮下文書三輪本現代訳『神皇紀』p240曰く。

十一甲申年(一四〇四)二月二日足利氏の目代千葉兼胤が富士阿祖谷に入り、太神宮の神領初め、富士十二郷その他一切の所領を没収し、且つ太神宮の社内、並びに各神官の家宅等を捜査し古文書、宝物を蒐集して社前の龍の河原において悉く焼却し…』

 

前記事でも述べた通り、富士朝滅亡には初代足利将軍尊氏の富士朝大宮司に対する個人的怨念もあった。故に足利家は誰よりもその祟りを恐れていた。

奇しくもその後に吉田兼倶によって吉田神道が成立。左京室町にあった社を、平安京の表鬼門にあたる京都市左京区吉田神楽岡町に遷座して、吉田神社を創建した。祓戸四柱を見立てた浄化システム上の、おおよそ艮(うしとら=北東)の方角を示す伊吹山~比叡山~鳴門の渦潮レイライン上にあり、節分祭の発祥地とされる。

宮下文書ではこの室町吉田家についての記載は一切ない。ただwikipedia卜部氏によると、三嶋大社神官であったという説があり、富士朝宮下氏族流吉田家となにかしら関係がありそうだ…。もっと言えば、富士朝神道が吉田神道に取り込まれた可能性はないだろうか?とみている。

 

※伊吹山山頂からおおよそ3kmズレ。




〜日月神示・第7巻日の出の巻第16帖(229帖)〜

 

『悪の衣着せられて節分に押し込められし神々様御出ましぞ、此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦は無いのだぞ、それまでに型させておくぞ、御苦労なれど型してくれよ…、春になったらどんな事あるか分からんから今年中に心の洗濯せよ…』




日月神示を書いた岡本天明氏は大本教に所属していた。出口王仁三郎の大本では、節分の豆まきは神を追い払う調伏の儀式とみている。例えば柊の枝にイワシの頭を刺し門戸に掲げる柊鰯は、艮(うしとら)の金神こと大国常立尊の晒し首を模しているという。大元ではこの節分を大祓日にしており夜通し人型大祓をする。和紙の人型を綾部市内由良川(和知川)へ流すという。日月神示上の『型さす』『心の洗濯』とはこの大祓の意味がありそうだ。










因みに3月3日ひな祭りとは?

 

10代崇神天皇が皇子・豊城命を勅使として高天原麻呂山(表紙写真↑)から大和国笠縫からアマテラスを勧請。三品の大御宝を、アマテラスの神霊として大和国へ奉還させた日。

 

奇しくも3月3日であった。

 

欠史八代までの天皇は富士高天原参りを怠らなかった。しかしそれは財政的負担となり効率化が求められた。崇神天皇は様々口実つけて権力の象徴である三種神器を奪取しており、古代神道が大きく狂わされた記念日となる。

つまり、西国天皇勢力にとっては祝日でも、東国にとっては無視され始めた日となる。








太神宮境内『徐福祠』、宮下文書によると麻呂山は徐福埋葬地でもある。




善と悪は捻じれる。

 

神仏習合とは?

以前、彼岸の神社参拝はタブー視されているとご紹介した…。阿祖山太神宮では季節の移り変わりに祭礼をしていた形跡があるのに、神々にとっては死者の穢れとなるという矛盾がある。そもそも神道=祖霊信仰であり、神々だって我々のご先祖さまなのに。つまり日本人が神々の遺伝子をもつ子孫であることを隠すために、権力者に意図されて神・仏を使い分けてきた事になる。

 

善悪とは?

権力者サイドが作り上げた幻想でもある。それらが権力移譲のたびにひっくり返り、長い歴史のなかでアチラコチラで捻じれが生じているのだ。

だから仏教には人々の目から遺伝子信仰を背けさせる側面もあった。さらには神を独占して一般庶民から遠ざける目的もあった。それは歴代権力者が神系譜を改竄しつつ、古来からの旧勢力の既得権益を削ぎ落とし、中央集権化を実現してきたからに他ならない。

この栄枯盛衰が織りなすパラドックスにも、是非気づいてほしい。



子どもたちの大切なイベントである『豆まき』『ひな祭り』をいまさらやめろとはいわないが…。ただいままで追い返していたのは、我々のご先祖さまだったというオチもありそうだ。日本には鬼=神として崇敬される地域もあり、節分には『鬼はウチ』という掛け声をするという。

正直調べれば調べるほど、何が正しいのかわからない時代となってしまった感がある。でもそれこそが、今世に二元性社会に生まれた私たち人間の学習テーマなのかもしれないと...。既成概念に疑問を持つことの大切さを示していると思われる。

 

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

 

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〈緊急続報〉宮下文書源頼朝による富士朝再興、なんと前『風の時代』ドンピシャだった。

2025年元旦朝、『人見山』


2025,1,25

きっかけは風まかせ。

 

前記事で風の時代に少し触れたが。

〈小国奥宮巡り〉熊オッサンの少弐氏回顧録、遠江一宮小国神社炎上の二極化で思った事。 - セキホツ熊の謎を追え!

まず素朴な疑問として…、前回の『風の時代』って何だったのだろう?と思うようになった。無論当ブログでは通説では語れない、あくまで宮下文書目線で調査が必要だと。

ま…いつものようにきっかけは気まぐれ、風まかせだったのだが。この着眼点は間違っていなかったようだ。

というのも…なんと前回の風の時代が、宮下文書における頼朝富士朝再興期間とドンピシャなのだ!。源頼朝をはじめとする東国氏族たちが富士山に集合意識を向け、富士縄文神道を復活させた時代である。世間的にも長らく続いた貴族社会の衰退、そして武家社会の台頭があり、歴史の節目として知られている。



▼地:貴族の既成概念による圧倒的支配

▲風:流動的だがブレることを嫌う武家社会

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の『風の時代』

 

まず、何をもって富士朝再興と定義するかは迷うところ…。頼朝の立願は伊豆国挙兵1180年で、参拝の定例化は1188年。いずれにせよ1185年頃には具現化していたとみられる。神領を没収されたのは1404年となる。

 

占星術で見てみると…。

風の時代のグレートコンジャンクションのエレメントが地→風へ。はじめの年は1185〜1186年、つまり宮下文書版源頼朝と東国氏族が富士朝(二所明神)を、頼朝と宮下家(源氏婿入り男系)のコンビネーションにより再興している。

一口に風の時代と言っても段階がある。1206年に一時的にエレメントが地にシフト、1226年から再び風のエレメントとなる。1365年に一時的に水とシフトするが、また風へ戻る。

そして最終的に1405〜1425年。グレートコンジャンクション水へ完全移行した。前記事でご紹介したように1404年2月2日富士朝は足利軍により陥落させられた年だ。

これらは偶然なのだろうか?(´(ェ)`)




〜宮下文書における『風の時代』〜

 

1127地

1146地(1156保元の乱)

1166地(1180頼朝伊豆国挙兵、富士大菩薩立願)

1186風(1188二所明神への精進始め)

1206地

1226風

1246風(1247宝治合戦)

1265風(1274・1281元寇)

1286風

1306水

1325風(1333鎌倉幕府滅亡)

1345風

1365水

1385風

1405風(1404二所明神陥落)

1425水

1444水(1467応仁の乱、戦国時代へ)

1464水



・治承四庚子年(1180年) 四月九日より、頼朝と政子、毎日毎夜富士大菩薩に謹んで立願頼り給う。

・文治四戊申年(1188年)正月十六日、二品源頼朝、 太神宮である二所明神の精進を始めた。

・応永十一甲申年(1404年)二月二日三度の戦闘後、足利氏目代・千葉兼胤が富士阿祖谷入り。神領所領没収、古文書宝物を蒐集して龍の河原にて焼却。



※二所明神(二所七廟明神)とは、平安〜室町時代頃の阿祖山太神宮の通称。ただし一般的には二所権現=箱根権現・伊豆権現を指している。通説では宮下文書の将軍家富士朝詣を隠蔽するための造語と思われる。






ほらね…、再興時期がピッタリ…。

(´(ェ)`)

 

少なくとも日本人の集合意識が富士山へ向いていたことになる。

残念ながら、吾妻鏡や太平記には触れられておらず、今のところ宮下文書三輪本にしか記載されてない。北条得宗家は三浦氏・和田氏・畠山氏・梶原氏ら富士朝関係氏族を滅ぼし、足利将軍家は富士朝と匿われた南朝残党を滅ぼした。三宅記によって伊豆の歴史が悉く改竄されたのもこの頃だ。権力者側からみるとこれらの黒歴史は抹消されるべきだったのだろう。

いみじくも『風の時代』終焉とともに二所明神は陥落した、このあたりも気になるところ。









2023年7月17日富士山から宇宙湖方面へ、小野神社を望む。





 

原点回帰がテーマ?

結局、富士山と風の時代はどういう関係があるのだろうか…?。

風の時代だからこそ全てが良くなるとは…誰も言っていない。むしろ貴族→武家社会のように既成概念が急変し、旧勢力と新勢力の二極化となって必ず痛みを伴うとしている。逆を言えば世直しのチャンスとなる。だからこそ自分軸をもって柔軟に生きていこうと解釈している。

個人的には、風の時代のテーマの一つとされる原点回帰・オリジナリティが鍵なのではないかと思っている。だとすると今この『風の時代(動乱の世)』だからこそ、富士山を目印として流動せよということなのだろうか?。日本人の発祥地へ集合意識を向けろと...?。歴史に良い時代も悪い時代もないわけで、それが戦国の世を招くのか、はたまたユートピアへと繋ぐのかは我々次第ということだろう。

 

 

 





最近、これが源頼朝の家人・武藤資頼からのリマインダーなのだろうと考えるようになった。彼は1232年人見稲荷神社を創建、これは我々未来人に託したメッセージであると考えている。

 

富士は晴れたり日本は晴れ(´(ェ)`)

 

 

 

 

そして前回のサムハラ奥宮から面白いレイラインを見つけた。

因みにサムハラ神社って大阪府の神社なのに、奥宮が岡山県にあるという謎の多い神社。実はそのライン上に瀬織津姫『六甲比命神社』とヒルコ『西宮神社』があるのだ。

次回はホツマ版ヒルコ(ワカヒメ・ワカヒルメ)と瀬織津姫との捻じれ現象に話が戻ります。

私用につきしばらくお休みしますm(__)m。

 

 

 

 

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〈小国奥宮巡り〉熊オッサンの少弐氏回顧録、遠江一宮小国神社炎上の二極化で思った事。

 

 

『本宮山』

小国神社奥宮『奥磐戸神社』鳥居。
奥宮はここから15分ほどの山頂にある。

 

 

2025,1、19

前記事の続き。

 

熊オッサンが元寇総大将家・大宰少弐(武藤氏)の末裔である確証はありません。家紋は『寄懸り目結』、家系図もなく、祖父は家出同然で上京してきました。ただ熊オッサンの曽祖父が肥前鍋島藩選抜の近衛師団だったので、それなりの血筋の血筋だったのかな?と。根拠はこれだけです。ただ異国の地、東京生まれの熊オッサンの人生と神社研究過程で、なぜかこの武藤氏(少弐氏)や外祖父梶原氏の影がチラついてくる。そして今回遠江一宮にも痕跡が確認された。

今回はちょっとスピリチュアルに…、自分探しの旅です。

(´(ェ)`)

 

※謝罪と訂正。

正式名称『小国(おくに)』神社です、失礼をいたしました。ただ地元を含めて『おぐに』と濁ることは多々あるようです…。

m(_ _)m



 

 

宮下文書大国主命本拠地『遠江一宮小国神社』、元寇総大将少弐氏の炎上カルマをみた。 - セキホツ熊の謎を追え!

 



 

 

宮下文書は魂のリマインダー?。

 

前記事、武藤氏(少弐氏)をおさらいすると。

平安末期1180年(治承4年)頼朝が伊豆にて挙兵、安田義定が遠江守に任ぜられた折にその家臣・武藤頼高が遠江国一宮領目代として領したことに始まる。

戦国時代1572年(元亀3年)動乱に武藤氏定が独断専行、武田軍を遠江国へ手引きしよう計画した。それを知った小国神社神主側・小國豊前重勝らは徳川方へ助けを求め、神主子息を人質に協約を結んだ。武田軍がこの地にやってくると御祭神と御神宝を避難させ、宮に火をつけ焼失させた。





宮下文書を研究しているうえで、遠江一宮に因縁を持つことの意義は、記紀しか読んでいない人には分からない。宮下文書を読んでいなかったら気づかなかったと言える。

逆を言えば…この宮下文書がそれを呼び起こすリマインダーになっていたわけだ。宮下文書を読めば小国神社がフツーの神社ではないことは明白、ただそれを研究することを見越してのことである。となると熊オッサンが宮下文書に出会う確率論の問題であり、こんな偶然が続くのかと...驚きを禁じ得ない。

熊オッサンにとっては小国神社だからこそ意味があった。正直他所様の神社だったらこれほど興味を持たなかったかもしれない。そして今回良い機会が到来したなと…、年末初詣準備で氏子さん総出の大忙し中の小国神社に行ってきた。

里宮参拝、そのまま年末境内の喧騒をすり抜けて本宮山へと向かった。

(´(ェ)`)











少弐氏の特異性。



市丸昭太郎著『少弐氏の興亡と一族』によると、九州北部の武藤少弐氏の痕跡は意図的に消されている節があるという。なにかおかしいと。

元寇における日本軍総大将家であり2度の元寇を防いだ功労者、2代資能・3代経資ともに教科書にでてもおかしくはない武将だが…。経資は子を失いながらも奮戦しているのに、墓も位牌も残っていない。前記事でご紹介した九州探題今川了俊による誘殺については、九州内の文書に一切記載されず。こういう扱いにはさすがに泣けてくるが、これが日本の歴史認識なのだろう。

 

 

宮下文書の観点からみれば…。

外祖父鎌倉氏流梶原氏は太神宮里宮寒川郷(相模国高座郡一宮)を領しており、武藤資頼は富士朝宮下家同族となる三浦義澄に保護され、源頼家の元服式典では有職故実の指導を任された。さらに1252年(建長4年)武藤左衛門尉景時なる人物が鎌倉将軍宗尊親王の富士朝代参をしており、富士朝+頼朝ともに近い存在だったことが浮き彫りとなる。このように…武藤少弐氏の歴史が歪んでいる背景には、巡り巡って頼朝派と富士朝派の敗北も絡んでいるのではないか?と見ている。

後継の北条得宗家からしてみれば、1188〜1190年?頼朝主導東国氏族らのカンパで富士朝(二所明神)を復興させたことは都合の悪い事実であった。頼朝派・富士朝派は体よく纏めて九州へ左遷させたかったようだ。ただそのなかで武藤資頼が筆頭とされ、大宰少弐職に出世したことに大きな特異性を感じてしまう…。

となるとこの遠江一宮周辺を預かったのも別格の思いがあったと推測。そもそも富士朝を復興させた頼朝らは、この神社が縄文時代からオオクニヌシ系統本貫地であることを理解していたハズである。そんな極上の聖地を武藤氏が領する背景には…、それなりの意味があったのかなと?。

 

日本人の原点回帰の観点からいえば富士山は帰巣本能であり、遠江武藤氏が甲斐武田へ憧れるのも自然なことに見える。頼朝復興に恩義がある外祖父系統梶原氏(鎌倉氏)ら武田方の富士朝関連氏族にも、彼らにはパイプがあったに違いない。ただ今回問題なのは…、富士山に漠然とした憧れを持っていた武藤少弐氏が先走り、地元住民たちを無視して、甲斐武田に内通したことではないだろうか?。結果この駆け引きがトリガーとなり遠江一宮は炎上した。

宮下文書版遠久見国は大和三輪氏族の本貫地とみられ、古来より大和国との繋がりが深かったと推測。701年(大宝元年)42代文武天皇勅使由来の『十二段の舞楽』継承からみても、天皇家と西国神道に結びつきが強かった。つまり今更東国へは靡けなかったのである…。そこに神社側と武藤氏に対立が生まれ、社殿炎上があったのだと推測している。熊オッサンの両親が伊豆半島伊東に20年住んでいたのだが…、そもそも静岡県は地政学的に東西団結が難しい県民性を持つという…。

 

※因みに小国神社は、明治初年と明治15年に立て続けて火災を起こしており、いずれにしても価値観の急変の時代であった。











本宮山ハイキングコース、サクサク歩けるが分岐点がヤバい。

 

 

武藤氏とオオクニヌシと出雲族の接点?。



さらに武蔵一宮・武蔵総社にも関連していることを付け加えたい。これもまた武藤氏族の特異性の一つであり、ここにオオクニヌシ祭祀の接点が見えてくる。

そもそも武藤少弐氏の本貫地は武蔵国であり、彼らは武蔵一宮小野大神を崇敬していた節がある。この東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘周辺は宮下家関戸氏が領しており、小野神社宮司は太田家であった。つまり富士朝色が強かった地域と思われる。明治以降氷川神社に一宮の座を奪われた理由の一つだろう。

鎌倉時代1232年、武蔵左衛門尉資頼が武蔵総社大國魂神社を修造。世間的には資頼は1228年に死んだことになっているので注意。ただ武藤氏自体がアチラコチラで隠蔽されている節があるのは前述の通り。彼はこの一宮小野大神を崇敬していたようで、同年創建した三所之宮(人見稲荷神社)には小野大神天下春命・瀬織津姫命が祀られている。

 

注目すべきはこの三所之宮が、小野神社・大國魂神社神社と富士山方面へ並んでレイラインを形成していることである。そもそもこの地が出雲族エタモヒの祭祀の場でもあったということだ。さらに富士山高千穂峰ラインと、小国神社からのラインが小野神社付近多摩川で交差する。

因みに人見稲荷神社は熊オッサンが当ブログを開始するにあたって『頑張ります』と宣誓した場所。後日そこが武藤資頼創建と知って驚愕した。こういうところにも武藤少弐氏族に運命を感じてしまうところ…。

(´(ェ)`)





〜小国小野浅間大社レイライン〜

  • 弁天島海浜公園大鳥居(観光シンボル)
  • 浜名湖辨天神社(武蔵川越城下仙波村から勧請)
  • 賀久留神社(式内社)
  • 東美薗八幡宮(式内論社、元明天皇時代創建)
  • 遠江一宮・小国神社(大己貴命)
  • 大洞院・本堂
  • 駿河一宮・富士山本宮浅間大社
  • 境内・湧玉池
  • 東口本宮冨士浅間神社(大己貴命、807年創建、700mズレ)
  • 武蔵一宮・小野神社(大己貴大神)
  • 武蔵総社・大國魂神社(大國魂大神=大国主命とされる)
  • 人見浅間神社(武藤氏拠点)
  • 川口神社(武蔵武芝、将門の乱関係?)
  • 大雄山海禅寺(平将門創建)

 

 

 

小野神社由緒書きによると、大己貴大神と瀬織津比咩大神だけに『大神』が記されており、主祭神筆頭の天乃下春命(シタハル)にはついていない。小国神社からは二宮二宮神社・三宮氷川神社へもレイラインが確認され、世間的にいう出雲神スサノオ・オオクニヌシが武蔵国の祭祀にて重要なのが伺える。

もっというと…、武蔵国シタハル祭祀や出雲族エタモヒというのは、中国地方出雲というよりは信州出雲戸隠にとっての鍵のようだ。戸隠神社御祭神オモイカネ・タヂカラオ・ウワハルとはホツマ版シタハルの家族神であり、母神がワカヒルメ(ヒルコ)。レイライン的に言えば小野神社シタハル・氷川神社スサノオ、それぞれ重大な特性が見えてくる。

 

別記事にていつかまた別記事で纏める予定。(´(ェ)`)











本宮山山頂『奥磐戸神社』、シンプルな覆屋の中に本殿がある。



 

本宮山奥宮『奥磐戸神社』へ

 

というわけで前置きが長くなったが…本宮山奥宮へ参拝してきた。

標高511mの低山だが、遠州灘から望むと綺麗な三角形頂点にある。遠州灘の漁師たちは本宮山と目印にしており信仰対象とされて来た。小国神社からは距離あり片道6キロ徒歩2時間半以上かかる。道中林道が入り組んでおり、登山客も道中案内板も少ないのでご注意。因みに奥宮駐車場までは別路で車でも行けます、ただこちらの道もグーグルマップでは表記されておらず分かりにくいので注意。

実は2017年9月に当社へ参拝経験があり。このとき境内案内図にて奥宮の存在を知った。どうせならじっくりとハイキングしたいなぁと…、その時はスケジュール的に無理があり諦めた。遠江一宮に武藤氏の存在を知ったのはそれから3〜4年たった頃、登山意欲がさらに深まった。

 

(´(ェ)`)



◯小國神社奥之宮『奥磐戸神社』(静岡県磐田市虫生)

〜御祭神〜

  • 大己貴命荒魂

 

※555年欽明時代に大己貴命荒魂の御神霊が降臨した元宮、例祭には宮司らが登山するという。

 

小国境内白山社を参拝。そこで笑顔の素敵な地元おばあちゃんに遭遇、一宮川沿いを300mほど一緒に歩いてくれた。こういうときは神々の計らいなんだろうなと、なるべくお話を聞くことに専念する。聞く所によると、30年間一ノ宮川沿いをウォーキングで歩いているという。大きな杉の木をゴールにして亡くなった旦那さんの名前を付けているという。『道が分かりにくいので気を付けてね』『このまえ磐田市内(隣の市)の公園?まで迷ってしまった人がいたわよ…』とのこと。もしかして呼ばれないと辿り着けないレベル???

事前にネットで調べてイメージトレーニングしてきたつもりだが、どうしても迷ってしまう三叉分岐点が約2箇所あった。しかも道中出会った登山者は七人ほど、かなり寂しいコース。そこに地元のハンターさん?が猟銃を持ってヒョッコリ現れる。

 

猟師『…!?』

熊『りょ、りょ、猟友会だああああああっ!!』



『こっちは行き止まりだよ』と優しく教えてくれた。ライフルを見たのは初めてだったので、つい動揺してしまった…。

 

ハイキングコース上の景色はあまり見れないが、山頂付近で視界が開け遠州灘の絶景が拝める。

オオクニヌシさまもこの眺めを見ていたのだろうか?。流れる雲を遠望していたら様々なインスピレーションが湧いてきて、得た知識をまとめることができた。私が歩くのが好きな理由でもある。それにしても、社名『奥磐戸』とは一体何を意味するのであろうか?、意味深である。前記事で述べたように宮下文書版オオクニヌシはアマテラスを岩屈に匿った張本人、なにかしら岩戸開きにお考えがあったのではないか?と…。

寒中汗だくでハァハァと…本宮山山頂に到着、どっかりとしゃがみ込んだ。息切れ終るまでちょっとお時間頂けませんか?と懇願した。平地を何十キロも歩き回るのは平気なのだが、山登りはスタミナがなかなか追いついてこない。するとそこへ『待っていたぞ!』といわんばかりの地を揺らす突風がふき(ホント)、轟音とともに山の主がやってきたのが分かった。

(´(ェ)`)

 

まずは騒動を謝罪、『同族武藤氏がご迷惑おかけしました。申しわけございませんでした』とお辞儀。ひふみ三唱後に『この国の岩戸開きにどうかお力をお貸しください…』とお願いをしてきた。

 

(´(ェ)`)









 

 

 

静岡県周智郡森町天宮『天宮神社』




かつての奥宮関係社?『天宮神社』。



帰途に『天宮神社』を参拝。

奥宮は神仏習合の影響で、小国神社別当神宮寺『八形山蓮華寺』の僧侶が祭祀を担っていた?という情報もある(未確認)。神宮寺とは小国神社天宮社を習合した天台宗比叡直末の大寺院であった。明治時代の廃仏毀釈の折に廃寺され祭祀的機能は当社が継承、現在も十二段舞楽などで一宮祭祀の片輪を担っているという。そして驚くべきことに天宮神社〜小国神社の延長線上に、丹波一宮『出雲大神宮』があるのだ。

現在、境内合祀殿に奥岩戸社も入っており、大己貴命が祀られている。同合祀殿『八王子社』にニニギが祀られている点も、宮下文書記述を裏付けになるかもしれない。

 

 

◯『天宮神社』(静岡県周智郡森町天宮)

〜主祭神〜

  • 田心姫命
  • 市杵島姫命
  • 湍津姫命

※三女神=道主貴(みちぬしのむち)という。

 

〜奥宮〜

  • 天宮神社大神?
  • 大山祇命



〜小国出雲大神宮レイライン〜

  • 天宮神社
  • 若宮八幡神社跡地
  • 小国神社(宮下文書オオクニヌシ系統本貫地)
  • 椿大神社奥宮(1.2kmズレ)
  • 大伴黒主神社
  • 福王子神社
  • 近江神宮(400mズレ)
  • 宇佐八幡神社(大津市、400mズレ)
  • 瓜生山(八坂神社牛頭天王一時鎮座地)
  • 狸谷山不動院(桓武天皇開基)
  • 今宮神社(オオナムチ)
  • 出雲大神宮(オオナムチ元宮、元出雲伝承)
  • 丹波太神宮(佐々婆神社、7代孝霊天皇勅願)
  • 大賣神社(式内社)
  • 石龕寺(聖徳太子開基)
  • 瀧神社奥の院(鎌足孫武智麿創建、800mズレ)
  • サムハラ神社奥の宮(岡山県津山市加茂町)
  • 金持神社(天之常立命)
  • 金屋子神社奥宮
  • 湯野神社(奥出雲町)
  • 八重垣神社跡(奥出雲町、出雲神話ルーツ)
  • 伊賀武神社・八重垣神社(奥出雲町)
  • 須佐神社(須佐大宮、2.5kmズレ)
  • 多伎藝神社(式内社、オオカムヅミ、1.5kmズレ)

 

 

 




これぞ出雲神話すり替えレイラインである。

宮下文書三輪本現代訳p130によると。神武東征においてスサノオ55世孫中夫出雲大神主命が大活躍した。この論功行賞において信州出雲から出雲・尾木(隠岐)の国替え?をした。ニュアンス的にいうと刑務所+裁判所を意味していた『出雲』の地名を、信州戸隠から中国地方へ移した感がある。これは出雲監督官スサノオ末裔が、東征における戦犯である中国地方出雲白木人たちを集中的に監視する役割もあったのではないかと。

さらに同年論功行賞にて、オオクニヌシ54世孫小夫丹馬但波命が丹波国造を賜る。丹波一宮オオクニヌシ祭祀となにか関係がありそうだ。

 

wikipedia出雲大社と出雲大神宮によると…。

出雲大神宮社伝によると当社には『元出雲』という別称があり、出雲大社オオクニヌシ御神霊の勧請元だと主張している。

古事記によると、ホツマツタヱ編纂期とみられる11代垂仁天皇時代に、皇子・本牟智和気命が祟られるのを恐れて、出雲に大神の宮(今の出雲大社比定)を建てたという記載がある。それから中世のある時期から17世紀までの御祭神はスサノオという説あり。

そもそも出雲大社は、江戸末期まで『杵築大社(きずきたいしゃ)』と称していた。出雲の神といえば丹波一宮を指しているという。宮下文書における出雲とは木(き)と竹(ちく)で建てた罪人監視の宮と記されている。つまり木築(きちく)とは木+竹=牢獄という意味で、暗に信州出雲を指している。これは警察+裁判所のような機能を有しており、もともとそこの罪人であった多加王スサノオが言向和平で改心したため、自ら監督官を担っていた。それをダブルチェック体制としてオオクニヌシが監督していた構図だ。




つまり…オオクニヌシ出雲王朝なんてないよ(´(ェ)`)




天宮神社は第29代欽明時代の創建。

ヤマトタケル(小碓命)の子孫、太田君と森君が筑紫国宗像大社から宗像三女神を勧請して創建する。さらに奥宮には大山祇神が祀られており、宗像大社元宮と称される佐賀県唐津市呼子町加部島『田島神社』のコンビネーションを再現しているのは興味深い。因みに宮下文書では、阿祖山太神宮初代大宮司がオオクニヌシ、その副司がオオヤマツミとなる。

当地は太田郷と呼ばれており、太田川の由来となっている。森町ホームページによると後世1336年(建武3年)にこの太田郷内一藤地頭職を少弐貞経から子資経に譲られている。さらに1420年(応永27年)少弐満貞から武藤白幡へ安堵されている。

 

宗像大社由来の境内御神木・竹柏(ナギ)の大樹を眺めていたら、神主さん?が話しかけてくれた。京(当時の都を指す言葉)の十二段の舞楽の資料をいろいろ見せてくれた。これは奈良春日大社系の舞楽が原型となっており、演目は小國神社と対を成して、左舞と右舞で構成される。神主さんはこの継承に務めて、ネット上でもさまざま広報されているようだ。非常に親切丁寧な方で、森町の伝統文化を伝える意気込みを感じた。

そういえば大宰少弐氏は宗像大社とも縁があったハズ…。神主さんに遠江武藤氏についてなにかご存知ですか?と聞いたら…、やはりというか知らなかった(苦笑)。ま、本貫地武蔵国でも武藤氏の存在は殆んど知られておらず、マイナーなのは仕方がない。



(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本宮山ハイキングコース道中『西宮神社』
祭神不明だがヱビス信仰と思われる。





急変の世で必ず起こること...、二極化。

 

熊オッサンは霊感ゼロ、フツーのオッサンだが…、今回学ばせていただいたことがあるのでご紹介する。

日月神示曰く『神には善も悪もない』、これが天界から人間界を見守るスタンスだと思われる。おそらくワンネスの観点から言えば戦争は逆行するものでしかないのだろう。ただ小国神社では、御神前で対立を晒して宮を焼くという火災事件が起こった。神主たちにとっても最悪の事態を招いたと言えそうだ。それが巡り巡って、関係同族にカルマとして跳ね返ってきたのではないかと想像している…。

神はそれ以上に失敗から何かを学ばせたいハズである、そして子孫ならば祖先から何かを学べるハズである。さらにこの令和の動乱時代は、徳川と武田が拮抗し動乱を招いた一宮焼失事件とピッタリ何かが当てはまるのではないか?と。

 

(´(ェ)`)

 

縄文時代のユートピアはなぜ消失したのか?。

宮下文書研究家であり、三浦氏41代宗家・岩間尹著『実録三浦党』p113によると。室町時代の足利尊氏は、富士朝57代大宮司・富士三浦左京三浦義勝(宮下氏族)を恨んでいた可能性あり。

1351年(観応2年)三浦義勝は尊氏の弟・義直に大義を説き、『名分に徹する事が武士の誉れであり、これこそ先祖に応える所以なり』と、信心深い弟を吉野南朝方に帰順させることに成功した(観応の擾乱)。もちろん本音がどういうものだったかは不明、通説でもこの直義の行動は大きな議論を呼んでいる。ただ尊氏にとっては誰よりも信頼していた同母弟が、大宮司に唆されて自らを殺害しにきた…と映ったのは確かだろう。

足利将軍家は、富士朝を支援してきた清和源氏末裔であり、富士朝御祖霊信仰を敵に回すつもりは毛頭なかった。しかし北朝と南朝の複雑な戦況により、気づいたら朝敵となっていた(この時代は同族内で北朝・南朝で対立することは珍しくなかった)。その怒り・闘争心・背徳感で理性が保てず、自失したに違いない。

かつて罪人スサノオが提唱し、縄文阿族たちが信州出雲で培ってきた言向和平の精神はもはや保てなくなっていた。きっと互いの立場に立てば、誰が悪いわけでもないのがわかるだろう。しかし祟りを恐れた彼らは、怒りに身を任せ、神殺しと罵られる覚悟で高天原を燃やし尽くした。

4代将軍・足利義持の時代1404年2月2日、足利軍により富士朝陥落。宮下文書こと『富士古文書』が太神宮周辺の龍の河原において悉く焼失、これを宮下文書三輪本は『足利氏の身分を越えた暴挙』と述べている。1467年応仁の乱が勃発し、奇しくも…日本人の飽くなき闘争本能は戦国時代へ爆進した。




声『お前なら高天原がなぜ滅亡したか分かるじゃろ?』

声『疑念と恨み、闘争本能』

声『人間たちは何を学んできた?』

声『まだ繰り返す気か?』

(熊オッサンのたぶん幻聴)

 

確かに、善も悪もなかった。

既得権益と闘争本能、結局はこれらが富士朝陥落を招いた結末と言えそうだ。世の始まりからの神々が高天原炎上を許したのは…、親心として、子孫である我々に学ばせる必要があったのではないだろうか…。いまそれを感じ取ることしかできないが(妄想)。





本宮山から遠州灘を望む。





スピリチュアル的に言えば、2024年11月20日水瓶座の時代がスタート、西洋占星術にて自由・平等・進歩・革命を象徴とされており、あらゆる分野にて真相が明らかになると言われる。総じて個々の才能を発揮できる『風の時代』とも言われる。それは政治家・官僚・マスコミ・芸能界のスキャンダルのみならず、神社・史学の分野でも起こるのではないか?と思っている。

それが日本人の自然な回帰の流れだとしても、変化について行けない者たちは必ず出てくる。いままでどおり権力が生んだ既得権益をもっていればを家族は養えるだろうし、子々孫々憂いなく過ごせるだろうが…。いずれにせよ変化についてゆけない者は、変化を進める者を全力で阻止に出るだろう。

かといって...この情報開示の波が収まるとも思えない。この先人類はあるべき姿に進むことが求められるが、未来は常に一つではない。あらゆるタイムラインが想定されており可能性領域となっている。つまり激動の時代こそ外界にブレない『自分』が必要となる。それには外界のニュースよりも内面に焦点を見続ける必要があり、最終的には自らが何者なのか?何ができるのか?知ることが求められている。

だとしたら人と争わず自らを信じて『事任(ことのまま)』、あるべき姿へ身を任せ『許当麻知(ことまち)』せよと。今後の変化とは自らの内側に焦点を当てるものだから。

 

声『どっしり構えておれ』と…。

 

個々の時代、自分が自分であること、それが来たるべき時代を指し示していると思われる。今思えばあの時、『事待池』に銀河系とアンドロメダ星雲が見えたのはこのことだったのかなと…(苦笑)。

(´(ェ)`)

 

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※地図はクラフトマップ使用。

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宮下文書大国主命本拠地『遠江一宮小国神社』、元寇総大将少弐氏の炎上カルマをみた。

静岡県周智郡森町『遠江一宮・小国神社』
7年の歳月を経て戻って参りましたm(__)m。

 

 

 


2025,1,5

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m。

 

今回もほぼ思いつきの旅です。年末記事で飽波神社300m北にある『若一王子神社』をご紹介しましたが、この目で確かめたくなり旅にでた。当ブログ『妹背論』を裏付ける驚愕の真実を見つけてしまった(別記事にて)。

今回はさらに足を伸ばして、以前から行きたかった遠江一宮小国神社『奥磐戸神社』へ。本ブログで何度もご紹介しておりますが、宮下文書における阿祖山太神宮初代大宮司オオクニヌシ系統本貫地に比定される重要社。

 

(´(ェ)`)

 

〜遠江駿河めぐり〜

  • 遠江一宮事任八幡宮(己等乃麻知比売)
  • 事任八幡宮本宮磐座(己等乃麻知比売)
  • 阿波々神社(式内社、阿波比売命=己等乃麻知比売和魂)
  • 飽波神社(瀬織津姫・蛭子・アメノオシホミミ)
  • 若一王子神社(源義家、千歳の松伝承)
  • 月夜見神社・八幡神社(ツクヨミ・アマテラス)

 

〜遠江めぐり〜

  • 香勝寺(武藤氏関係)
  • 真田城跡(武藤氏拠点、別名一ノ宮城)
  • 遠江一宮小国神社(武藤氏が武家神主だった?)
  • 西宮神社(ハイキングコース分岐点)
  • 奥磐戸神社(オオクニヌシ降臨地、奥宮)
  • 天宮神社(小国神社と対関係?)
  • 賀茂神社



~目次~

 





 

遠江一宮『小国神社』とは

 

創建不詳。社伝によると、555年(欽明16年)、現在地から6km北東・標高480mの本宮山に創建され正一位を賜る(諸説あり)。本宮山は現在も奥宮を称しておりオオクニヌシ降臨地伝承が残っている。古名として許当麻知(ことのまち=ことを待つ)神社、または事任(ことのまま=事のままに)神社と呼ばれている。『小国(おくに)』というのは出雲大社に対する美称とされている。






◯『小国神社』(静岡県周智郡森町一宮)

〜御祭神〜

  • 大己貴命

 

〜摂社〜

  • 奥磐戸神社
  • 並宮
  • 八王子社(宮下文書版クニサツチの八王子と推測)
  • 宗像社
  • 飯王子社(ウケモチ≒飯縄権現オオトノヂ・オオクニヌシ父神と推測)
  • 塩井神社
  • 瀧宮
  • 愛宕社
  • 白山社

 

遠江一宮は2社あるので注意。もう一社の静岡県掛川市八坂『事任(ことのまま)八幡宮』はホツマツタヱ神道大系と思われる成務天皇年間の創建。言わずもがな中国地方出雲の歴史改竄が始まった同時代とみられ、自ずと遠江国の富士朝とオオクニヌシの歴史から目を逸らせる必要があったわけだ。

ただ事任八幡宮にも本宮山があり磐座があり、尚且つ戸隠山~諏訪湖のレイライン上にある。古代祭祀場が残っているのでどちらが重要かは断定できない。御祭神は己等乃麻知媛命でアメノコヤネの母神だが、『ことのまま』の名称から考えても小国神社と何かしらの呼応関係が考えられそうだが…。

 



境内『事待(ことまち)池』

水面に小宇宙(コスモ)が見えるのは、熊オッサンだけであろうか?。








 

宮下文書におけるオオクニヌシとは?。

 

宮下文書におけるオオクニヌシとは、出雲国出雲大社とは全く関係ない。

アマテラスが創建した阿祖山太神宮の初代大宮司であり、全国の農民・職業の師の大祖神。クニサツチ御子オオトノヂの長男、サルタヒコの兄、アマテラス・ツクヨミ・スクナビコナ・コトシロヌシ・タカテルヒメ・月桜田毘女命の従兄弟にあたる。

因みに小国神社入口にある摂社『飯王子社』は、飯綱神社里宮と同じくウケモチを祀る。飯綱権現ではもともと飯綱山に農作の租オオトノヂを祀っていた経緯があり、ウケモチ=オオトノヂの可能性が高い。だとすればオオクニヌシとサルタヒコの父神。

 

アマテラスは大己貴命に命じて、四方州々を回り農民神に諸々の職業を指導させ、大槌と大熊の大袋を与えた。全国を巡り巡って高天原に帰還した大己貴命は、諱として『大国主命』を賜る。オオクニヌシとヱビスが四方州々から牛・馬・鹿を取り立てて、アマテラスに貢いたことから租税の祖ともみられる。

スサノオ(多加王)が朝鮮半島から高天原にやってきて、アマテラスに強引な求婚をした折、彼女に安全な岩戸に隠れているように奏上したのはオオクニヌシだった。つまり岩戸事件を解決した一番の功労者。スサノオは、アマテラスとオオクニヌシのタカミムスビ系はとこにあたると見られ、スサノオが信州出雲(比定地戸隠山)に配流された折に、彼のお目付け役となったとみられる。

 

ニニギ時代、外寇親征の役論功行賞にて、オオクニヌシとコトシロヌシ子孫一族を北国守護司頭長の家と定める(戸隠を含んでいた可能性あり)。

因みにこれがホツマツタヱにおいて、ホツマ版・初代大物主オオナムチが北方へ退いたことを暗示させている。ホツマ版出雲八重垣事件にて高天原から嫌疑をかけられ、日隅国 (津軽一宮岩木山神社) に国替えされたと歴史改竄している。これが現代までに語られる出雲神話『国譲り』の原型となっていると推測。



ヒコホホデミ時代、オオクニヌシは遠久見(遠江国)の国造となり、佐野原に佐野宮(古麻の宮?)を建てて拠点とした。因みに明治時代まで掛川〜森町周辺(事任八幡宮付近)を佐野郡と呼んでいたようだ。

彼にとっては実質大宮司からの隠居生活であった。弟サルタヒコはアマテラス〜ヒコホホデミの四代に仕え、御年十六万三千日(446歳)のご長寿。同時代生きた兄オオクニヌシもご長寿であったのは間違いない。



神武東征時代、九州ウガヤフキアエズ朝からやってきた神武天皇挙兵に早期段階で応じたのがオオクニヌシ57代豊徳知貴命。宮下文書版三輪氏祖とみられ、彼の五人の息子たちが大活躍した。祖神オオクニヌシが租税の祖であることから、戦後は三輪の里で諸税収納役(税務監督者?)と商法担当に抜擢されたようだ。

 

〜オオクニヌシ『三輪氏』とは?〜

※豊徳知貴命と5人の息子たち(三輪本現代訳p126)

 

▲大太力命(嫡男、租税・商法の官職を継ぐ)

▲佐野男命(遠久見・三川の県令)

▲尾羽喰男命(古麻の宮を継ぐ)

※この三子を三勇士とよび、総じて『三輪家』と呼んだ。

 

△天香護山命(コトシロヌシ御子と同名別神、越後国造)

△萱野世諾命(佐渡県令)

 

 

 

 

 

つまり宮下文書視点からいうと、オオクニヌシと出雲国出雲大社は直接的な歴史が全くないということだ。そもそも宮下文書における地祇や国津神というのは、全く意味が異なっている。明治時代になると、信州出雲戸隠『顕光寺』が明治政府により焼き討ちにあった。奇しくも明治初年にこの小国神社も焼失したという。wikipedia出雲大神宮によると、江戸時代まで出雲の神といえば丹波一宮で、出雲大社は杵築大社と称していた。

出雲大神宮・戸隠神社・小国神社は、宮下文書『出雲大神』とその変遷を裏付けている貴重な存在なのである。言い換えれば、海外ユダヤ勢力と結託し開国を迫った長州率いる明治政府にとっては、都合が悪い存在であった。昨今ネット上でも、忌部日ユ同祖論・出雲口伝・出雲王朝説がゴリ押しされて、宮下文書がタブー視されている理由も頷けるであろう。


出雲王朝なんてないよ(´(ェ)`)。

 





 

 

 

 

小国神社に交差する五本のレイライン

 




〜①富士山氷川小国レイライン〜

  • 筑波山六所皇大神宮霊跡(前記事参照)
  • 蠶影神社(前記事参照ワクムスビ、800mズレ)
  • 国王神社(平将門公)
  • 春日部八幡神社
  • 久伊豆神社
  • 武蔵三宮氷川神社(現一宮)
  • 北野天神社(小手指、ニギハヤヒ)
  • 武蔵二宮二宮神社(クニトコタチ)
  • 石楯尾神社(式内論社、名倉権現)
  • 御正体山
  • 新屋山神社奥宮(500mズレ)
  • 富士山
  • 大石寺(◯◯学会関係?)
  • 大洞院
  • 遠江一宮小国神社
  • 鷺之宮八坂神社(アメノオシホミミ)
  • 有玉神社(坂上田村麿伝承)
  • 潮岬出雲
  • 朝貴神社(大己貴命、1.8kmズレ)
  • 本州最南端の地

 

※熊野那智〜熊野速玉〜阿祖山太神宮古宮跡〜筑波山〜大甕神社・泉神社にほとんど平行している。






〜②戸隠小国レイライン〜

  • 戸隠山
  • 戸隠奥社
  • 日本中心の標(長野県辰野)
  • 松島神社(伊那松島、ニニギ)
  • 小国奥宮奥磐戸神社(600mズレ)
  • 小国神社三ツ石(牓示石)
  • 遠江一宮小国神社
  • 真田城(遠州武藤氏拠点)
  • 鎌田神明宮

※『日本中心』は定義・条件により全国アチラコチラにある。






〜③籠津島熱田小国レイライン〜

  • 眞氣命神社(隠岐)
  • 隠岐神社
  • 俵野廃寺跡(丹後最古の寺院?)
  • 籠神社(元伊勢説)
  • 多禰寺(聖徳太子弟・麻呂子親王開基)
  • 佐伎治神社(式内社、オオクニヌシ)
  • 本光山馬居寺(聖徳太子開基)
  • 礒崎神社(ヤマトタケル死亡地説)
  • 臥龍山行基寺(行基開基)
  • 津島神社(宮下文書版日本総社)
  • 国玉神社・八剣社合殿
  • 熱田神宮
  • 富士浅間神社(愛知県東郷、式内社)
  • トヨタ本社工場
  • 本田宗一郎旧宅跡(生誕地)
  • 遠江一宮小国神社
  • 加茂荘花鳥園
  • 遠江一宮事任八幡宮本宮山磐座
  • 遠江一宮事任八幡宮

 





〜④出雲小国レイライン〜

  • 出雲大社
  • 阿須伎神社(出雲大社摂社)
  • 菅原天満宮(日本四社)
  • 八雲山・須佐之男命御磐座
  • 出雲一宮熊野大社
  • 都々古和気神社(京都府南丹市)
  • 比叡山横川中堂
  • 三上山(2kmズレ)
  • 三上神社
  • 鏡山
  • 苗村神社
  • 至恩郷・山神社(岡本天明、1kmズレ)
  • 三河一宮砥鹿奥宮(本宮山、オオクニヌシ)
  • 遠江一宮小国神社
  • 伊古奈比咩命神社(白濱神社)




※少し気になることである。静岡県浜松市天竜区春野町に同名神社『小國神社』があるが、由緒書きによると磐田市二之宮の遠江二宮『鹿苑神社』がかつて881年(元慶3年)までその地にあったという。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内『鉾執社』。小国神社社家41家の神と人の仲立人を祀る。




九州大宰少弐がなんで、遠江一宮にいたのか?。

 

で…本題に入るが。

この小国神社に、なんと熊オッサンの推定?ご先祖さまである武藤氏(少弐氏)分家が関与していたようなのだ。元寇の折に大宰府実務トップとして日本軍総大将を務めた九州名門であるが、戦国時代までに以降興亡を繰り返して嫡流家系は滅亡している。



森町教育委員会によると。

武藤氏は既に鎌倉時代以前からこの地に関与しており、遠江守護安田義定の五奉行・遠江目代に武藤頼高(少弐資頼の弟)の名が記録されている。安田守護職に代わって見附国府や一ノ宮周辺を実行支配していたと思われる。

吾妻鏡によると、1181年(治承5年)に武藤五郎なる人物が遠江から鎌倉に参じたと記されている。御前落居記録によると一宮代官職と記されている。つまり後世にこの地を支配した今川氏よりも歴史は古い。

鎌倉時代の武藤少弐氏は、大宰府少弐として北九州の大部分を任されていた。『筑紫古文書追加』によると、室町時代1336年5代当主少弐貞経が子・資経に遠江一宮太田郷内一藤名地頭職を譲ったと記されている。

 

市丸昭太郎著『少弐氏の興亡と一族』によると、室町時代1370年となると。足利氏庶流・今川了俊九州探題実権を握る。8代当主少弐冬資はこれらに不満を示しており来陣をボイコット、その後宴の席にて謀殺されたという。つまり今川氏からライバル視されていたために殺害されたとみられる。1387年(嘉慶元年)10代当主少弐貞頼は今川了俊と和睦して筑前国守護職に復帰、以降は主従関係となる。

こうして駿河・遠江の今川勢力に従わざる得ない状況となってゆく。

同上『筑紫古文書追加』によると、11代当主少弐満貞の時代に、同族である武藤白幡?に伝領が確認されるという。1432(永享四年)武藤用定が一宮荘代官職を安堵され幕府奉公衆となる。これは幕府が反幕運動を取り続ける少弐氏を牽制するもので、九州のパワーバランスが影響したもの。幕府による少弐氏族分断と封じ込め政策の一つと考えられる。

結局...九州本家と縁を切り、在地の道を選ばざる得なかった遠江武藤氏。ここから本格的に遠江一宮小国神社側と関係を深めていったようだ。

 

戦国時代には今川氏が衰退。そもそも彼らは今川に憎しみを持っていた経緯もあり、武田方へ靡いたのは自然な成り行きだろう。その背後にはやはり、かつての富士朝に愛着があり、富士朝関係氏族との関係復帰を望んでいたフシもあるのではないかと…。宮下文書によると、武藤氏には1250年(建長2年)将軍家代参の記録もあり。武藤氏外祖父系にあたる梶原氏は、梶原刑部亮朝景・梶原七郎景氏らは、1222年(安貞2年)富士朝を訪れていた親鸞上人のもとで出家している。1252年頼朝幕府に由来する東国氏族が富士朝回帰を願うのは必然、今川・徳川よりは武田に親しみを抱いていたのではないかと…。

この時代にこの地を領していたのが武藤刑部丞氏定、小国神社の武家神主(神職)と見られる。しかし戦国時代1572年(元亀3年)徳川と武田の対立に巻き込まれ、徳川軍の展開があまりにも速すぎて一時甲斐国へ避難したようだ。現在山梨県内には武藤姓が多い、なにか関係があるかもしれない...。

彼らは最終的に、戦国時代屈指の激戦区高天神城に一族籠もり戦死、生き残った子孫は帰農し土方村に土着した。結局この地域自体が非常に富士朝色が強く、四世紀ころに宮下始祖大山守皇子の第五王子土形遠栄彦は遠久見留国造となっている。同国小笠原土形に拠点を置き土形氏の祖となる。諸説あるが、土方氏(土方歳三の祖先?)ではないかと見られる。武藤氏と土方氏に接点は確認できない。

ん...。小笠原ってまさか...。

 

※Xにて武藤氏自害と書きましたが、激戦の高天神城に籠り討死の誤りです。ゴメンナサイ。

m(_ _)m








 

 

 

社殿炎上、徳川家康による再建

 

1572年(元亀3年)徳川氏目代・武藤氏定が武田信玄に寝返り、武田の軍勢を遠江国に招き寄せた。それに反して神主・小國豊前重勝は、自らの霊夢に従って子・千松麻呂を人質に徳川方の保護を求めた。この時武田軍から守るために、自ら宮に火を放ったとのこと…。御神霊は別所に遷し、三条小鍛冶宗近作の太刀を奉納し祀ったという。

1575年(天正3年)家康は家臣本多重次に命じて、本社を造営に着手。ほどなく再建に向かった。

 

〜日光二荒山大神〜

大己貴命

▲田心姫命

▲味耜高彦根命

 

〜徳川家康崇敬神の宮下文書解釈〜

▲オオクニヌシ…遠久見地主神

▲カモサワヒメ…別雷命、三嶋神、寒川毘女命、宗像三女神田心姫命?(下野国寒川郷田心姫命信仰)。



前記事にて、徳川家康がオオクニヌシと別雷命カモサワヒメを祀っている節があると、ご紹介したのを覚えているだろうか?。通説徳川家康は清和源氏を称しているが、実際のところはわかっていない。葵紋に執着を残し、三河賀茂郡松平郷の賀茂神社神官家系(賀茂氏?)という説もあるようだが…。

根本的に彼が何故この二柱にこだわるのかを考えると、その秘密は駿府城にありそうなのだ。地図上の事実として小国・三嶋のレイライン上には、なんと家康の因縁の駿府城がある。つまり別雷命=三嶋神カモサワヒメ=寒川毘女命、宮下文書の裏付けにもなるわけだ。

さらに武藤氏外祖父梶原氏との痕跡までもが刻まれている。神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋の土肥椙山巌窟(しとどの窟)は、梶原景時が源頼朝とはじめて接触した場所といわれている。景時は相模一宮寒川神社付近を領している。さらに静岡県静岡市清水区岡町『下清水八幡神社』は梶原景時が八幡神を勧請した地、西5キロ先には梶原景時の終演の地『梶原山』がある。さらに下清水八幡の北隣には『御浜御殿跡』があり、徳川家康の休養所があったという。ヤマトタケル東征『草薙神社』『橘樹神社』にも繋がっている。

無論、彼らがこのラインを知っていたのかは不明だが…、やはり強力なご守護があったと考えるのが妥当かと…。

(´(ェ)`)

 

 

 

 

 

〜⑤小国三嶋レイライン〜

  • 上総二宮橘樹神社(ヤマトタケル)
  • 神武寺(頼朝父・源義朝の屋敷)
  • 土肥椙山巌窟(頼朝と梶原景時の出会の地)
  • 瀧川神社(伊勢遷宮古材の社殿、瀬織津姫命)
  • 伊豆一宮三嶋大社
  • 御浜御殿跡(家康の御殿あと)
  • 下清水八幡神社(梶原景時による八幡神合祀)
  • 草薙神社(ヤマトタケル)
  • 静岡神社庁
  • 駿河総社・静岡浅間神社
  • 駿府城(徳川家康拠点)
  • 遠江一宮小国神社
  • 太刀山愛宕神社奥宮(論社・曽許乃御立神社)
  • 狭田国生神社(内宮摂社さたくなり神社、速川比古命・速川比女命、旧寒河社)











 

 

次回は。

それにしてもなんで推定ご先祖さまがでてくるのか…。

よりによってこの遠江一宮に…。

戦国時代の善悪を語るつもりはないが、一宮を燃やしたというのは武家神主としても最悪の事態を招いたことになるわけだ。それは当然氏族のカルマとして残るであろう。ただこの地域の重要性は、宮下文書を読んでいなければ把握できないだろうし...。ここまで偶然が続くと、自分がホントに少弐氏末裔であることを信じざる得なくなる。

まるでオオクニヌシさまに、熊オッサンの宮下文書理解が試されているかのような(苦笑)。なにより彼は宮下文書版『アマテラス岩戸事件』のキープレイヤーでもあるのだ。

 

これは偶然なのだろうか?

なにを意図されているのだろうか?

ま...考えていても仕方がない、奥宮『奥磐戸神社』へ行って確かめるしかないと思った…。

次回は神社巡り記事。本宮山へのハイキングの道のりをご紹介しますm(_ _)m。

 

 

 

x始めたんですけど...。

そもそも宮下文書自体がセンシティブな内容なので、いつシャドウバンになってもおかしくはありません。彼らはネット上の数値で集合意識の分断を狙っているようですね。ただいま言える事は、宮下文書研究者が世間的にどういう扱いにされているかを伝えるよい実例かと...。

当ブログは純粋に宮下文書を研究しているのであり、組織的バックボーンが全くない事を証明しております↓。

 

 

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